日本ボクシング世界王者列伝:山中慎介 "KOアーチスト"として12度の世界王座連続防衛を果たした"GOD LEFT(神の左)"の衝撃史
「神の左」で記憶に残るKO勝利を積み重ねた山中慎介 photo by Kyodo News
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち24:山中慎介
100年に及ぶ日本ボクシングを振り返っても、真のKOアーチストと呼べるのは数人しかいない。その数人のひとり、山中慎介(帝拳)の場合。決して力づくとは思えないその一撃、一撃。静かな展開から、白熱の予感を一気に斬り落とし、美しいノックアウト、ノックダウンを創り出した。WBC世界バンタム級チャンピオンとして日本歴代2位の12度連続防衛を成し遂げたサウスポーの左パンチは、"美KO"の創造主として、"GOD LEFT(神の左)"と名づけられた。
【大学時代のスランプから再起の決意】
2006年の秋だった。時のWBC世界バンタム級チャンピオン、長谷川穂積の3人目の挑戦者として来日したヘナロ・ガルシア(メキシコ)の公開スパーリングが東京・神楽坂の帝拳ジムで行なわれた。その時のパートナーが山中だった。アマチュア経験が長いとは聞いていたが、プロの戦績は1勝1引き分け。駆け出しに過ぎなかった。集まった報道陣の目がガルシアだけに注がれるなかで始まったスパーリング。だが、その注目のメキシカンがダウンしてしまう。あっけにとられるなか、その後の残り時間はそそくさと消化し、スパーリングは終わった。
「ジムの中では(自分に対する)期待が一気に高まったんですけどね。その期待は時間が経つごとに、どんどんしぼんでいくのを感じました」
のちの取材でそう言って笑わせてくれた山中だが、実際、その成長過程はひどく奥手だった。ガルシアとの公開スパーリング後、KOパンチは片鱗をだんだんと表わしてきても、試合内容は安定せず、ダウンの応酬となったり、しぶとさが自慢の中堅相手に苦闘したり。その破壊力がフル回転し始めるまでに2年以上の下積みを要した。
プロになる以前もまた、ボクシングへの情熱は決して一直線に走ったわけではない。中学生の時、辰吉丈一郎(大阪帝拳)がシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)を劇的TKOに破った試合を見て、血がたぎった。高校でボクシングを始めようと、名門・南京都高校(現・京都廣学館高校)に進む。自宅がある滋賀県湖南市から京都府南部の高校まで電車を乗り継いで2時間。朝練に間に合わせるため、毎朝5時出発で通った。監督の指導でサウスポーに変えた。そんな努力の甲斐あって3年生時には国体(現・国スポ)少年の部バンタム級チャンピオンに。卒業後は体育推薦で専修大学に進んだ。
しかし、その大学時代はまったく奮わなかった。高校時代、あまりに熱中した反動で、燃え尽き症候群になっていたのか。それとも、戦前からの伝統を持つ強豪大学もその頃はトップから遠く下部リーグに甘んじており、目標を見つけにくかったのかもしれない。出場資格を持つ全日本選手権も棄権するようになる。のほほんと過ごしていた学生ボクサーも4年目、有力新人が入学してきた。のちにアマチュア世界選手権ライトウェルター級3位にもなる川内将嗣だった。その強さは群を抜いていた。練習内容も圧倒的に違った。
「刺激にはなりましたね。自分、何をやっているんだという気持ちにも」
勇んで練習に取り組み、国体にも出場した。だが、敗れた----。山中慎介がようやく本気になる時がきたのだ。卒業後、とびきりの名門、帝拳ジムに入る。ラーメン屋でアルバイトしながらの、厳しい修行の日々に自ら飛び込んでいった。
1 / 3
著者プロフィール
宮崎正博 (みやざき・まさひろ)
20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

