ガールズケイリン専念で梅川風子が目指す次なる目標 現実を受け入れられなかったパリ五輪落選 (2ページ目)
スピードスケートからガールズケイリンに転向した梅川 photo by Gunki Hiroshiこの記事に関連する写真を見る スケートで鍛えた脚力は自転車でも生かされ、2016年に競輪学校(現日本競輪選手養成所)に入ると、非凡な才能を見せた。学校内の記録会には基準タイムがあり、そのなかでも最高レベルをクリアした者にゴールデンキャップという金色の帽子が与えられるが、女子史上2人目としてそれを獲得。在校成績3位、卒業記念レース優勝という見事な成績で卒業する。プロデビューしてからも勝負強さを発揮し、翌2018年にはガールズケイリンの最高峰レース、ガールズグランプリに初出場。そこから2019年、2020年と3年連続で出場を果たしている。
「競輪学校でゴールデンキャップは絶対獲りたいと思っていました。そして実際に獲れたとき、私の前に獲ってすでに活躍していた小林優香選手以上の選手になるためにはどうしたらいいかを考えるようになったんです。私は自分より速い選手がいたとき、そこに追いつくのではなく、超えるためにどうするかというのを常に考えるようにしています」
ガールズケイリンのレーサーとなってからは概ね、順調な競技生活だったと振り返る。だが、その一方で、キャリアを重ねていくなかで、梅川の心には目標を見失う感覚も少しずつ生まれていた。
「もちろんガールズグランプリに出て、優勝するという目標はありましたが、自分自身にすこし頭打ちの感じがあったんです。そんなとき、ナショナルチームに入っていた競輪学校同期の太田りゆ選手が、そのコーチ陣にそれとなく私の話をしてくれ、『もし覚悟があるのなら、ナショナルチームに来てもいい』という誘いを受けたんです」
スピードスケート時代の経験から、タイムにこだわって競技に取り組むことは、ガールズケイリンとはまた違った厳しさがあることを梅川は知っていた。またスケートで成しえなかった"世界で戦う"という夢も競技転向当初はなかったという。
それだけに競輪学校時代に、世界で活躍できる選手を育てることを目的としたトレーニンググループ「HPD教場」(ハイパフォーマンスディビジョン)に選ばれても、ナショナルチームへの興味は示さなかったが、閉塞感を感じていたこのタイミングでの誘いに心が揺れた。そして1カ月ほど悩んだ末に覚悟を決める。
「競技の世界はシビアにタイムが求められ、非常に残酷なものだと知っていました。ただガールズケイリンを経験した後に、改めて世界の舞台で戦える可能性が出てきたとき、そこに賭けてみようと思いました」
梅川は「世界に挑戦できる環境がすぐそこにあるのに、挑戦しない理由を探すほうが大変だった」と言う。2020年、ナショナルチーム入りし、日の丸を胸に戦うことを自ら選んだ。
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