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松山恭助を襲ったパリ五輪本番前のアクシデント 団体戦までの3日間「ズタボロだった」状態で考えたこと (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

――でも安心感はあったのではないですか。

 それもありましたが、とにかく早くパリ五輪の出場権を獲りたいという思いがみんなのなかにあって、とにかく必死で......。五輪が考えられるようになったのは(24年)3月くらいでした。僕は個人戦ではけっこう早めに出られる見通しはつきましたが、それが100%になるまでは安心できなかったですし、他のチームメイトもまだ混沌としていました。チーム内の争いでギクシャクすることはなかったけど、みんなが個人の代表争いを必死でやっている感じでした。

【感情のすべてを受け入れた3日間】

――(団体戦は)第1シードでの五輪出場でしたが、プレッシャーはなかったですか。

 逆によかったなと思っていました。初戦の相手がカナダでしたから。普通にやれば勝てる相手だったので、精神的にラクでした。絶対にメダルを獲らなくてはいけないというプレッシャーのなかで1戦目がカナダだったので、メダル争いの相手になる次のフランスや中国を見据えやすかった。カナダとは個々の選手のレベルもかなり差があったので油断しなければ問題ないなという感覚でした。

――個人ではベスト16で負け、飯村選手はベスト4までいきましたが、敷根選手は1回戦負け。そういうなかでの準備はどうでしたか。

 団体戦のメダルは、日本のなかでも僕らに一番チャンスがあったので、そのプレッシャーと、日本が3日連続でメダルを獲っていて最終日が自分たちだったというプレッシャーもありました。

 自分が、個人で負けた気持ちを切り替えなくてはいけないのはわかるけど、本当に一生をかけて臨んで負けた戦いだと簡単に切り替えるのは不可能だと思ったので、とにかく毎日自分の感情の全部を受け入れました。どんなにネガティブな感情になったとしても「切り替えなくちゃ」とは思わずに、今の自分を全部受け入れ、そのうえでもう一回戦える姿勢を作ろうと思っていました。

 あの3日間は本当に気が気じゃなかったし、精神的にもズタボロだったんですけど、とにかく一日一日を本当に一生懸命生きてしっかりと受け入れ、「絶対に勝つ」という気持ちを表面上ではなく、心の底から思えるよう準備しました。パリ五輪の記憶を振り返る松山 photo by Gunki Hiroshiパリ五輪の記憶を振り返る松山 photo by Gunki Hiroshiこの記事に関連する写真を見る

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