【パリオリンピック男子フェンシング】加納虹輝がエペ個人、フルーレ団体は初の五輪王者に 日本の強さを世界に知らしめる (3ページ目)
【世界ランク1位で勝ちきったフルーレ団体】
実力どおりの力を見せ、結果を残したフルーレ団体(左から松山、永野、飯村、敷根) photo by JMPAこの記事に関連する写真を見る
一方フルーレは、個人戦では敷根崇裕(NEXUS)が初戦の2回戦で敗退し、世界ランキング5位の松山恭助は初戦圧勝も、次の3回戦ではフィリッポ・マッチ(イタリア)に11対15で敗退。「相性のよくない相手だったので自分なりに考えて試合に入ったが、あまりうまくいかず自分の弱さが出てしまった」と悔しさを露わにしていた。
だがチーム最年少の20歳で世界ランキング9位の飯村一輝(慶応大)は、キレのある動きと攻撃的なフェンシングで同7位のアレクサンダー・マシアラス(アメリカ)に勝利。準々決勝は、世界ランキング1位のトマス・マリニ(イタリア)を破って勝ち上がってきたマキシム・ポティ(フランス)相手に、第1ピリオドの残り22秒で14対14の同点に追いつかれながら、その2秒後には勝負を決める小気味のいいフェンシングを見せた。
飯村は、準決勝で世界ランキング3位の張家朗(チェン・カーロン/香港)、3位決定戦では同 2位のニック・イトキン(アメリカ)にそれぞれ11対15、12対15で敗れてメダル獲得はならなかったが、「これで団体戦への思いもより強くなった。(団体)世界ランキング1位の自信を持って臨みたいと思います」と勢いをつけた。
2016年リオデジャネイロ五輪後に世代交代をし、2017年世界選手権では西藤俊哉と敷根が銀と銅を獲得、その後のワールドカップでも団体で表彰台に上がっていた男子フルーレ。2012年ロンドン五輪の銀メダル以上を目指した東京五輪は4位で、金メダルを獲得した男子エペに先を越された。だが2022年以降は松山たちの世代に若い飯村が加わり、団体の表彰台に定着。昨年の世界選手権では団体初優勝を遂げ、松山も個人で銅メダル獲得と、今大会は世界ランキング1位で臨んだ。
男子フルーレ団体は競技最終日の8月4日に行なわれた。
日本のフェンシングチームは出場した団体戦のすべてでメダル獲得を果たす状況で、「自分たちもメダルを獲らないと日本に帰れないと思った」と松山が明かしたように、プレッシャーがのしかかっていた。
それでも初戦で世界ランキング16位のカナダに45対26で圧勝すると勢いがついた。準決勝のフランス戦は、ほとんどのゲームでフルマークの5点を獲得する安定感で45対37と危なげない勝利を収めた。
迎えた決勝のイタリア戦では第1ゲームでランキング1位のマリニを5対3と圧倒した敷根を、第4ゲームの途中からサブの永野雄大(NEXUS)に代える作戦。中盤には2点のリードを奪われたが第6ゲームで飯村が逆転すると、第8ゲームでは永野が相手を完封して5得点。最後はアンカーの飯村がいきなり4点を連取して王手を掛け、2点返されたものの、残り50秒で5点目を奪い45対36で完勝した。
松山は「東京五輪後の3年間で、一つひとつの試合で自信を持ってプレーしたことが結果につながってきた。だからこそ今回もいつもどおりの自分たちのプレーをして、『なにがなんでも勝つんだ』という気持ちで戦えた」と振り返る。
オリンピックの金メダルをずっと狙い続け、世界ランキング1位の優勝候補として臨んだ大会での勝利は、大きな価値がある。エースの松山に頼るだけではなく、状態を見て、ほかの選手を重要なアンカーに据える自在な戦法を取れたことは、日本のチーム力の高さを世界に知らしめたと言えるだろう。
プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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