為末大に聞く東京オリンピックの意義 レガシー、アスリートファーストとは何だったのか? (4ページ目)

  • 西村 章●取材・構成 text by Nishimura Akira

【社会の中のアスリートという認識】

――東京オリンピックは新型コロナウイルス感染症が世界で蔓延していた時期で、非常に分かりやすい形でそのような認識に直面したのだと思いますが、パリオリンピックを目前に控えた現在、アスリートたちの考えはどんなふうに変わっているのでしょうか。

為末:まず、東京オリパラでスポーツ界が気づいたんでしょうね、「あれ、スポーツを嫌いな人もいるのかもって(笑)。「オリンピックなんて全然興味ない」という人たちがいるのは当たり前なんですけれども、それが可視化されて傷ついたアスリートもいたかもしれない。一方で我々の時代は「がんばります、日本を代表して夢と希望を!」みたいな世界観だったものが、近年では、何のためにスポーツをしているのか、と自ら顧みるすばらしい選手が多くなったとも思います。

――それは選手にとって幸せなことなのでしょうか。

為末:選手は純粋に競技に取り組んでほしい、と考える人もいるでしょうね。私自身も、じつは少しそう思うところもあるんです。けれども、やはり社会的な振る舞いを学び、そのうえで競技に集中するという、両方をやらなければいけないのだろうと思います。昔は、我々オリンピアンは「引退したら社会人にならないとね」なんて平気で言っていました。でも、今は全員が踏まえておくべき常識があって、皆が同じ社会で共存しているという考え方は、世界的に共通しているように思います。

――アメリカやヨーロッパでは社会的な発言をするアスリートが以前から多い一方で、日本では「世の中のことには口を挟まず競技に集中するんだ」という傾向が強かったように思います。現代のアスリートたちは、社会へのコミットメントに対するプレッシャーを感じているのでしょうか?

為末:あると思いますよ。昔はシンプルで「あなたの競技人生の夢を教えてください」というようなものだったのが、今は若くて経験がない選手にも社会やオリンピックに関する大きな問いが投げかけられる。何がセンシティブかもわからない年齢の選手にとって、リスクやダメージはたしかに大きいかもしれません。でも、その状況に適応していかなければならないだろうとも思います。選手たちはそういう質問に対応すると決めてもいいし、発言しないと決めてもいいと思いますが、今後は社会に対する発言を求められる機会は増えてくるでしょうね。

つづく

【Profile】為末大(ためすえ・だい)/1978年生まれ、広島県出身。現役時代は400mハードル日本代表選手として多くの世界大会に活躍し、2001年エドモントン、05年ヘルシンキの世界陸上選手権では銅メダルを獲得。オリンピックには2000年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会連続で出場を果たした。現在(2024年7月15日)も400mハードル日本記録(47秒89/2001年樹立)を保持している。2012年シーズンを最後に現役を引退後、現在はスポーツ事業を行なうほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。

プロフィール

  • 西村章

    西村章 (にしむらあきら)

    1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)、『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』 (集英社新書)などがある。

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