オリンピックを愛した男、ショーン・ホワイトの軌跡。バトンは平野歩夢に託された (2ページ目)
【トリノの衝撃】
ショーン・ロジャー・ホワイトは1986年に米カリフォルニア州サンディエゴで生まれる。生後3カ月で見つかった心臓疾患を2度の手術で克服し、6歳でスノーボードを始めると、13歳の頃にスノーボードブランドのバートンがスポンサーとなってプロとしてのキャリアをスタート。
その頃には赤毛のカーリーロングヘアをなびかせる華奢な少年の名はじわじわと日本のスノーボードファンの間でも話題となっていたが、2003年にショーンが初めてウィンターXゲームズを制し、そこから同大会を4連覇する過程で彼の知名度は一気に世界に広まっていく。そして2006年、ショーンはトリノで自身初のオリンピック金メダルを獲得する。のちに多くの日本人選手たちから「トリノでのショーンの滑りを見てスノーボードを始めた」という話を聞いた。それほどインパクトがあった。
ちなみに筆者はこれまで何度かショーンから直接話を聞く機会に恵まれたが、そのトリノオリンピックを翌年に控えた2005年秋に東京のとあるホテルで取材をしたのが最初だった。彼は当時19歳。無邪気な笑顔でお気に入りのギターを弾きながら、自分がいかにスノーボードやスケートボードが大好きなのかを終了予定時刻を過ぎても延々と語るシーンが今でも鮮明に思い出される(そのおしゃべりでチャーミングな人柄は後年も全く変わっていない)。
「トリノでは金メダルを獲りたい。でもそれが全てじゃないんだ。僕はXゲームズなどいろんな大会で勝ち続けたいし、常に自分がどこまでいけるか試したい。スノーボードでもスケートボードでも、自分の限界が一体どこにあるのかとことん突き詰めたいんだよ」
北京での彼のラストランを前に、約17年前にあのホテルの一室で聞いた言葉がふと脳裏に浮かんだ。そしてこう思った。叶わなかったがスケートボードで東京オリンピック出場を目指したことも、平昌の金メダルできれいに現役を終えることもできたのに、こうしてまたオリンピックの舞台に戻ってきたことも、きっとショーンにとっては若かりし頃から抱くスノーボーダーとしての信念に素直に従っただけなのだろうと。とはいえ35歳でスノーボード大国アメリカの代表としてこの舞台に立った事実そのものが並大抵ではない。やはりショーン・ホワイトは最後までモンスターだった。
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