金メダリスト・小平奈緒の性格を激変させた「国立大学入試の集団討論」 (2ページ目)
──小平さんはスケートへの好奇心、探究心にあふれていると感じます。子どもの頃、引っ込み思案だった少女に、どのようにして旺盛な探究心が芽生えたのでしょうか。
「これは、父親の影響が大きかったかなと思っています。両親ともにスケートをやっていたわけではなく、何も知らない状態でした。当時はスケートの教科書が手近になく、近くのリンクで大会があるたびに、連れて行ってと頼んでいました。父もトレーニングの知識を持っていなかったし、小学校まではコーチにも教わっていなかったので、とにかくトップ選手の滑りを観に行くというのが一番の学びの現場でした。メモ帳を片手に、リンクサイドでかぶりつくように見ていましたね」
──情報に飢えていた様子がうかがえます。
「そこまでしても、どういった滑りがいいのかわからなくて、例えば堀井学さん(元スピードスケート日本代表)の滑りを見て、『手は大きく振ったほうがいい』と父とふたりでその場でやってみたり。そうして父とディスカッションしながら、練習の意識づけをしていくっていうのは、よくやっていました。
父には特別、こうしたほうがいいんじゃないっていうものはなかったんですよね。だからたぶん、私の中で生まれてきた発見を聞いてくれたというのが、すごくよかった。なんかこう、選手のナマの雰囲気を父と観るのが楽しくて、本当に生きた学びでした」
──先日は東京オリンピックの聖火ランナーとして、所属する相澤病院のある松本城下を走りました。3大会出場を果たしてなお北京冬季五輪を視野に、その火は灯り続けているようです。小平さんにとってオリンピックとはどのようなものですか。
「オリンピックの最初の記憶は長野(1998年)です。そのテレビを観た時に、それまでなかったくらいに鳥肌が立ちました。言葉にできない感動を覚えて、『こういう舞台で自分を表現できたらすごい気持ちいいんだろうな』って思ったんですよね。小学校5年生のときでした」
──オリンピックを目指すとなると、その頃はまだ女子選手の場合、実業団に進む流れが強かったと思います。国立の信州大学に進学したいと思ったきっかけは何だったのでしょう。
「それは、長野で金メダル(スピードスケート男子500m)を獲った清水宏保さんの特集をテレビで観てですね。何やらスケートに知識のある人が信州大学にいそうだってことを知って。その人が、大学に入ってからずっとコーチをしてくれている結城匡啓(まさひろ)先生です」
──テレビを観て、どのようなところに惹かれましたか。
「当時は、とにかくスケートのことを知りたくて、将来この人にスケートを教われたらいいなって。それまでコーチから教わったことがなかったので、『スケートのことを知っている人のそばに行きたい』っていう気持ちがあふれてきました」
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