検索

「これ勝ったんですよね」。見延和靖の「リオ五輪の悔しさ」から描いた未来像が日本フェンシング初の金となり実現した (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Getty Images

 リオデジャネイロ五輪に見延の練習パートナーとして帯同していた山田優(まさる/自衛隊体育学校)が、19~20年には世界ランキング2位になり、団体も4位と東京五輪の出場権獲得に大きく近づいていた。しかし、新型コロナ感染拡大の影響もあり、国際大会に出ることもままならず、出場国が決定した時には、団体は世界ランキング8位まで落とし、自力では出場権を獲得できなかった。結果、東京五輪での男子エペ団体は、開催国枠での出場となった。

 フェンシングの団体戦は世界ランキングどおりにシードされ、上位国と下位国が当たるように組まれる。開催国枠の日本は第9シードで、初戦はアメリカ大陸枠で出場権を得た世界ランキング10位のアメリカ。勝ち上がれば1位のフランスと対戦する組み合わせだった。

 だが他国よりひとつ多い対戦が、日本に幸運をもたらした。

 アメリカ戦は、負けてもおかしくない展開だった。最初の加納虹輝(JAL)が2対4とされるスタート。次の山田は5対6まで戻したが、3人目の見延が3ポイント差にされ、5人目の加納で6ポイント差、6人目の見延で7ポイント差と離され、日本はかなり追い込まれた。

 そこでゴルバチュク・オレクサンドルコーチが下したのは、最後から2人目の見延をリザーブの宇山賢(三菱電機)に代える決断だった。 

「僕が出るなら負けている時しかないし、アメリカ戦も使われるなら最後の3戦だなと予想していたので、試合の流れを変えるしかないと思っていた」と話す宇山は、7ポイントを奪い、29対31まで迫った。

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る