肉眼で追えぬ!ロンドン五輪の激闘が日本フェンシング躍進の礎となった (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

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 当時、太田と一緒に戦っていたのは、個人戦で北京五輪に出場した同い年の千田健太や、先輩の福田佑輔と市川恭也。特に福田は、五輪イヤーになって不調に陥っていた太田に貴重なアドバイスを与えた存在で、対戦相手を想定した練習パートナーになっていた。

「ロンドン五輪では先輩たちと一緒にメダルを目指して戦いたい」。太田はそう話していた。

 しかし、北京五輪後は国内男子フルーレの勢力図が変わりつつあった。マツェイチュクコーチの指導もあり、若い選手たちが力を伸ばした。07年の世界ジュニア・カデ選手権(1316歳)では三宅諒が、08年世界ジュニア選手権では淡路卓が、それぞれ日本人初の優勝を果たしていた。

 太田と千田にその若い2人が加わった新たな日本チームは、10年世界選手権で3位になると、11年にはワールドカップ優勝を果たし、世界ランキングを3位に上げた。ロンドン五輪前はランキングを7位に落としたものの、3月のワールドカップ・ドイツ大会では3位を獲得。メダルを視野に入れた状況で、ロンドン五輪に挑戦した。

 7月末に行なわれた個人戦で、太田は初戦でいきなり北京五輪優勝のベンヤミン・クライブリンク(ドイツ)と当たったが、15対5で圧勝。3回戦は、世界ランキング1位のアンドレア・カッサーラ(イタリア)と接戦を繰り広げ、延長戦の末に1415で敗退したものの、大舞台で強さを見せた。千田と三宅は2回戦敗退だった。

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