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部屋から脱走し帰国した旭天鵬。
なぜ相撲界への復帰を決断したのか (2ページ目)

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

「キミたちは、モンゴルを代表して日本にやって来た。3年間は相撲を取るという約束がある」などと説明されても、僕の頭の中は「モンゴルに帰る」ことしかなかった。

 親方の説得を受け入れた旭鷲山、旭鷹は帰国を撤回したものの、僕、旭雪山、旭獅子の3人はそのままモンゴルに帰国することになったのです(注:旭嵐山だけ脱走しなかった)。

 そうして1カ月が経ち、僕は実家でのんびりしていました。

 9月は秋場所(9月場所)があるし、みんなは相撲を取っているのだろうけれど、当時モンゴルではテレビ放送もやっていないので、僕は自分が日本で力士だったことも自然に忘れかけていました。

 10月になり、大島親方、旭鷲山、旭嵐山がモンゴルを訪れて、ホテルで食事会をすると連絡が来たのです。気が進まないまま彼らと再会してみると、親方は「テンホウ、おまえの廃業届(当時)はまだ相撲協会に出していない。今なら力士に復帰できるぞ!」と言ったのです。

 そして、「旭鷲山たちが日本でがんばっているんだから、おまえだってできるだろう!」と、熱心に相撲界復帰を勧めてくださったんです。

 そうだよなぁ......。このまま中途半端な生活を続けていても仕方ない。両親も自分のことを不甲斐なく思っているはずだし、日本から逃げ帰ってきたことで、周囲の人から両親が責められているのも知っていました。

「親方、もう一度相撲をやらせてください」

 僕は気持ちを改めました。

 11月の九州場所(11月場所)から相撲界に"出戻り"した僕を取り巻く空気は、正直、悪かったです(笑)。一度逃げた者に対して、相撲部屋の人間は厳しい目を向けます。

 今だから話しますが、実際、その空気に負けてしまい、翌初場所の間は大使館から国技館に通うという、特別待遇も許していただきました。

 18歳。ずいぶん心が弱かったと思います。相撲部屋の生活に慣れてきたのは、日本に戻って1年が過ぎた頃からでしょうか。番付も徐々に上がり、1994年春場所(3月場所)では幕下に昇進しました。

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