関取ゼロの高砂部屋を救った朝乃山は、
亡き恩師の思いを胸に戦う (3ページ目)
朝乃山は「浦山先生の指導がなかったら今の自分はありません」と語る。富山市の呉羽小4年の時に始めた相撲。呉羽中学から富山商へスカウトしてくれたのが浦山さんだった。高校入学後は連日、放課後の午後4時から夜8時まで練習が続く日々だった。朝乃山は「厳しかったです。先生からほめてもらったことはありませんでした」と当時を振り返るが、その厳しく熱い指導のおかげで富山を代表する選手になった。
その後、浦山さんの母校でもある近畿大へ進み、4年時に国体4位、全日本3位の実績を残した。実は、浦山さんのがんは朝乃山が大学2年の時に発覚し、その時にはすでに手術ができない状態だった。恩師の夢は、「教え子からプロ入りする生徒を育てたい。そして、その子に関取になって欲しい」だったという。朝乃山は、自らと恩師の夢のためにプロ入りを決断し、高砂部屋に入門して関取となったのだ。
新十両昇進を機に、本名の石橋から朝乃山へ変えたしこ名。「山」には、故郷である富山と浦山さんへの思いを込めた。そして、朝乃山に続く下の名前に、恩師の名前「英樹」をつけた。
「先生は、ずっと見守ってくれていると思います。遺言書に託していただいた思いをかなえられるよう頑張るだけです」
新十両場所は、10日目を終えた時点で5勝5敗と五分。大阪は、大学時代を過ごした場所でもあり、「第2の故郷でもある大阪が関取になった場所というのも何かの縁かなと思います。自分の相撲を取り切ることを常に言い聞かせて取っていきたい」と今後の奮起を誓う。
地元の新聞社から贈呈された初めての化粧まわしには、富山を代表する魚で出世魚でもある「鰤(ぶり)」が描かれている。富山を背負うスーパースター、そして横綱へ。天国の恩師が託した思いを189cm、159kgの大きな体の中に詰め込んで、さらなる出世を目指す。
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