【フェンシング】金メダリスト・太田雄貴に残された「最後の務め」

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi  photo by AFLO

8月特集 リオ五輪まで1年、メダル候補の現在地(6)

 相手の攻撃をかわして伸ばした剣の先端が、空いた胸を突いた。自分のマスクのランプが点灯して15点目が認定されると、太田雄貴はその勝利をじっくりと噛み締めるように、右拳を胸の前でグッと握りしめた。やっと届いた、世界の頂点――。10代のころから強気に口にしていた目標が、2015年7月の世界選手権・モスクワ大会でついに実現した。

今年7月の世界選手権で悲願の金メダルを獲得した太田雄貴今年7月の世界選手権で悲願の金メダルを獲得した太田雄貴 2008年の北京五輪、ほとんどの人がノーマークだったなかでフルーレ個人・銀メダルを獲得し、フェンシングの存在を知らしめた太田。4年後のロンドン五輪、個人戦では3回戦で前年の世界王者アンドレア・カッサーラ(イタリア)に延長戦で屈したものの、千田健太や三宅諒、淡路卓と組んだ団体戦では世界ランキング上位の中国とドイツを撃破して決勝へ進出。最後はイタリアに敗れたが、銀メダル獲得で再びフェンシングの存在感を見せつけた。

 だが、ロンドン五輪後に太田は引退を口にし、東京五輪の招致活動などに携わった。その間、代表チームは低迷した。2012~2013年シーズンの世界選手権・団体は12位に終わり、国別世界ランキングも前シーズンの5位から8位に落ちた。

 2013年1月のチャレンジインターナショナル・パリ大会にジュニア選手も起用して臨んだヘッドコーチのオレグ・マチェイチュクは、「他の国では30代の選手もまだ現役でいるし、その年代は本当に油が乗ってくるころ。それなのに日本選手は、なぜ20代中盤で現役続行を躊躇(ちゅうちょ)してしまうのかわからない」と話していた。太田の存在の大きさを認識するからこその嘆(なげ)きだった。

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