2013.02.15

シドニー五輪テコンドー銅メダリスト・岡本依子の悲愴な願い

  • 木村元彦●取材・文 text by Kimura Yukihiko photo by AFLO SPORT,AFLO

『スポーツ紛争地図』 vol.2  第2回
2004年アテネ五輪では出場が危ぶまれ、岡本は署名活動もした 2013年、五輪3大会に続けて出場した岡本依子は、地元大阪で「ドリームテコンドースクール」を開校、現役引退後指導者の道を選んでいた。組織のメンツに翻弄された自身の現役半生をあらためて振り返ってもらった。今だから語れることもあろう。朴訥(ぼくとつ)な関西弁の節々から当時の痛みが伝わって来た。
(前回の記事はこちら)

――最初のシドニーオリンピックでの銅メダル獲得はテコンドーの日本のパイオニアという意味でこれから新しい競技を牽引していく起点になったのではないかと思います。Lリーグの崩壊以降、不遇といえた女子サッカーもW杯で大きな結果を出したことで一気にブレイクして選手の経済環境も整備されつつあり、競技人口も一気に増えました。テコンドーも岡本選手のメダルで認知されたと思うのですが、帰国されて生活が変わったことはないですか?

「それは特にないんです。私は大学を卒業してずっとアルバイトをしながらテコンドーをやっていて、代表で海外遠征に行っても、周囲の人からは『あそこの人、何やってるの?』っていう感じで見られていました。『テコンドーです』って言っても分からないから、説明すら面倒くさくて(笑)。他の人から見たらスポーツ選手じゃなくて、ただのフリーターなんですよ。

 でも、そう思うのも理解できます。自分は好きでそういうスポーツをやっているし、世界チャンピオンという目標があって、アルバイトをしている人間なので。テコンドーの場合、頑張って国際大会でメダルを取って帰ってきてもそういう生活がずっと続くんですよ」

――当時は何のアルバイトを?

「最初はパチンコ屋さんです。6カ月働いて、韓国に行って練習をして帰ってきて。あとは電話でクレジットカードの申し込みの確認や、営業のバイトとかですね」

――何を売っていたんですか?

「電話の販売です。第二電電の。あとはカード申し込みの信販とかで、(書類の)抜けているところを電話して、『ここは何ですか?』とか聞いて書いてとか。短期でお金をたくさんくれるバイトをしていました。でも、アスリートなので、早く寝ないといけなかったので、夜間のバイトはしたことがなかったですね」