小説『アイスリンクの導き』第12話 「王者の孤独」 (3ページ目)
「スケートが好き」
飛鳥井陸や星野翔平は、無邪気に言う。
富美也も、否定はしない。しかし、アプローチが違う。自分は勝つことでしか、好きな気持ちを証明できないと考えている。みんな仲良くやって、健闘をたたえ合う、なんてお遊戯だ。
それでも時折、性善説を受け入れられたら楽なのに、と思う。たとえば、心配で部屋に来たロシア人コーチには感謝していた。酔っ払ったようにしていたのも、お前も少しは気楽にやれよ、というメッセージだろう。陽気に振る舞っていただけなのかもしれない。
さらに言えば、富美也は一輝の気持ちがわからないわけではなかった。同年代のスケーターたちに囲まれ、少し言葉が過ぎただけだろう。一輝に「友達がいないが、作る必要性も感じない」と伝えたのは、他でもなく富美也自身だったし、別に自分を卑下したわけではない。そういう生き方なのだ。
日本人女性コーチの言葉も正論だった。人間関係を作ることで、スムーズに運ぶ事柄は多い。それぞれがリスペクトし合って、生み出されるエネルギーもあるだろう。
しかし、どれも承服することはできない。
それが三浦富美也というフィギュアスケーターだった。
富美也はスケートにすべてをかけてきた。友達だけでなく、彼女だって、ろくに作っていない。気になった女性はいたが、スケートで一番になる、ということを優先すると、関係は自然消滅した。
「そんな暇はない」
富美也はそう言って、突っ張って生きてきた。
〈全日本で借りを返す〉
富美也は陸へのリベンジを誓った。自分の生き方を、今さら裏切ることはできない。そこに辿り着くと、平常心が戻ってくるのを感じた。
全日本ではかつて自分の特別コーチを引き受けた福山凌太が、星野翔平のコーチとして戻ってくるという。
富美也にとって、凌太は特別な人だった。体形を揶揄され、スケートをあきらめかけた時、自分の才能を認め、励ましてくれた。コーチを引き受けてくれた時は、本当にうれしかった。ようやく自分の心を打ち明けられる人ができた。おかげで、デンバー五輪王者にもなることができたのだ。
しかし、凌太はそれを境に富美也から離れることになった。
「なぜですか?」
「理由はないよ、一区切り」
凌太はさっさと辞めて去った。それ以後、誰のコーチもしていなかったのに、翔平のコーチを引き受けた。
富美也はそれが我慢できなかった。コーチ解消後、調子が狂わせたことで、カルガリー五輪では陸に敗れた。コーチに戻って来てほしかったのに、翔平を選んだ。"裏切り行為だ"と詰って、その報いを受けさせたかった。
「お前は、本質的には翔平に似ているんだよ」
凌太が、富美也に向かってそう言ったことがある。さっぱり意味がわからなかった。その真意はどこにあったのか。
ソファから立ち上がった富美也は、バッグからスケート靴を取り出す。ブレードからエッジカバーを外し、タオルで入念に拭き直した。少しでも水分が残っていると、錆のもとになる。革の汚れを丁寧にブラシで落とした後、靴用クリームを靴用クロスにつけて、じっくりと磨き上げた。仕上げに、乾いたタオルで拭いた。
一年間、肌身離さず持ってきた、この靴こそが味方だ。
「誰に嫌われたって、一人でもいい。俺はスケートで一番になる」
富美也は声には出さず呟いた。
著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。
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