高橋大輔は指導者としては超ストイック? 次世代への継承を長光歌子と考える

  • 小宮良之●取材・文 text by Komiya Yoshiyuki

フィギュアスケート・長光歌子インタビュー第3回(全4回)

 50年以上にわたってフィギュアスケート界で指導者を続けてきた長光歌子コーチ。数多くのトップスケーターたちを輩出しているが、なかでも高橋大輔とは二人三脚で、華々しく男子フィギュアの歴史を変えた。インタビュー第3回は、「高橋大輔」という時代の継承がテーマだ。

2012年、「Art on Ice」上海公演の時の高橋大輔と長光歌子コーチ photo by Noto Sunao(a presto)2012年、「Art on Ice」上海公演の時の高橋大輔と長光歌子コーチ photo by Noto Sunao(a presto)この記事に関連する写真を見る

【幼少期から好きだったアイスダンス】

ーー「第2の高橋大輔」は出てくるのでしょうか? 彼はパイオニアで誰にも似ていませんが、理想にした選手はいましたか?

長光歌子(以下同) 大輔は、自分でいいと思う選手の動きをよく見ていましたよ。その理想が、とても高いところにあって。小さい頃からアイスダンスが好きでよく見ていましたね。「シングルよりもスケーティングがうまい! 美しい!」って......。

 中学生で初めて会った時から、美しいものに対する意識が高かったです。審美眼というのでしょうか。おじいちゃんっ子で、家でおじいちゃんの好きな時代劇を一緒に観たり、演歌を聞いたりしているのが好きだったそうですが、どこでそうなったのか。

ーーその美意識を鍛え続けたのですか?

 自分のところに来るようになってから、バレエ、ミュージカル、オーケストラには積極的に連れて行きました。スケーターの動画はすごく見ていたようで、自分のスケートにも無意識のうちに影響されていたのでしょうね。「誰が好きなの?」って聞くんですが、「別にない。誰ってない」って答えるだけで。彼なりの世界観があったんだと思います。幼い頃から「こういうスケーティングをしたい」という理想があって、それを彼なりに実現する天性も努力もあったんですね。

ーー高橋さんは、地元の倉敷の街の人たちがスケートを続けるために募金した「大輔ボトル」のように、人に愛される資質にも恵まれていました。

 あれは、ご両親のキャラクターでしょうね。理容室には、お母さん、(経営者の)田村(光代)さん、田村さんの娘さんがいて、みんないい格好をしなかった。素直な人間性が愛されて、そこに優しいお客様が大勢いて、その輪がつながって。都会の町だったら難しかったかもしれません。

 また、佐々木(美行)先生のような方がいらしたから、なるべくお金がかからないように、というところからスケートを始められて。大輔は、それにすごく恩を感じていました。助けてもらったんだから、返すのは当たり前って。倉敷のリンクの経営が厳しくなって、存続を求めていた時、大輔がエキシビションで滑ったこともありました。

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著者プロフィール

  • 小宮良之

    小宮良之 (こみやよしゆき)

    スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。

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