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プロとしての序章を終えた羽生結弦の本編第1作は東京ドーム単独に決定。「既存のショーからもっと進化させたものへ」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 能登 直●撮影 photo by Noto Sunao(a presto)

【東北で演技したかった理由】

 この日の公演では、羽生自ら言い出してプログラムをひとつ追加するシーンもあった。観客からのリクエストコーナーでは、2011−2012シーズンのショートプログラム(SP)だった『悲愴』や、ノービス時代のフリー『ロシアより愛を込めて』など、5つのプログラムを候補とし、観客が演じてもらいたい曲をペンライトの光の色で示した。

 その結果、数が多かったのは、2018−2019シーズンから2シーズン続けたSPの『オトナル』だった。だが、羽生は『悲愴』も演じたいと言った。

『オトナル』の演技後、YouTubeチャンネルでのリクエストから選ばれた2007−2008シーズンの『シング・シング・シング』をステップシークエンスから滑り、そのあと『悲愴』もステップシークエンスから演じた。

「『悲愴』は東日本大震災後に作ったプログラム。3月に被災してアイスリンク仙台が使えなくなったあと、恩師の都築章一郎先生にもお世話になって、横浜の東神奈川スケートセンターで練習をしました。

 そんな時に八戸の方からも、『節電中で電気は使えないけど、来て滑っていいよ』と声をかけられて。それで八戸に来て、日中に天井の換気口を少し開けて外の光を取り込み、プログラム作りをしたり、トレーニングをさせてもらいました。

『プロローグ』を東北でもやりたかったのは、自分の半生みたいなものを描いているなかに東日本大震災があるからで。見に来ている人のなかにも『3・11』という傷が残っている方もいると思うので、少しでも、何らかの気持ちが灯るきっかけになればいいと思っています。

 その意味でも、八戸にすごくお世話になっていたので、当時作っていただいたプログラムをこの地でできたのは自分にとってもすごく感慨深いものがありました」

 そんな『悲愴』の滑りは、その曲名から受け取った気持ちをそのまま、ストレートに突きつけるような鋭さを感じさせた。

「プロローグ」を企画した時、自分ひとりで滑るアイスショーが観客に受け入れられるのか、見てもらえるものなのか、不安だったと言う。だが、大勢の観客を迎えた5公演すべてを終えた今は自信を持てている。

「27歳だった今年は途中でプロになると決意をしましたが、今ここでプロとして初めてのツアーを、すごく内容の濃いものにして完走しきれて。だから僕の理想とするプロにちょっとなってきたなというか、足を一歩踏み出せたかなという気持ちで、27歳を終えることができると思います」

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