検索

日本ボクシング世界王者列伝:田中恒成 4階級制覇を果たしてもなお潜在能力を備えた (3ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Masahiro Miyazaki

【井岡戦の痛恨の敗戦から勢いを失った】

 田中は順当に"貴重な勝利"を積み上げた。2018年にはWBOフライ級王座を獲得し、その後も難敵を蹴散らして世界最短記録となる12戦目で3階級制覇を達成する。対戦相手も難敵ぞろいだった。ミニマム級初防衛戦で左ボディブローで痛烈な逆転KO勝ちを収めたビッグ・サルダール(フィリピン)をはじめ、世界王者経験者6人と対戦した。そのなかには木村翔(青木)、田口良一(ワタナベ)と日本のビッグネームも名前を連ねる。勢いを駆って、これも世界最短記録となる16戦目での4階級世界制覇を狙ったとしても当然だった。

 2020年の大晦日、田中はWBO世界スーパーフライ級王座に挑んだ。しかし、そこに同チャンピオン、井岡一翔(Ambition=当時)が立ちはだかった。

 31歳の井岡の頭脳とキャリアが生み出す読みの深さ、さらには堅牢なペースメイクは、田中の攻撃力をもってしてもまったく揺るがなかった。初回の半ばすぎには、井岡のジャブがヒットし始める。田中は手数で応戦し、序盤にポイントを奪うラウンドもあったが、すべては4階級制覇の先輩チャンピオンの手のひらでの戦いに見えた。5ラウンド、6ラウンドにはダウンを喫した。いずれも左フックのカウンター。背中からキャンバスにたたきつけられる痛烈なものだった。8ラウンド、またしても左フックを食ってヒザが落ちたところで、レフェリーストップにかけられた。

 この一戦を境に、田中のボクシングがスケールダウンしたと感じたのは私だけだろうか。井岡戦で守りの重要性を深く認識し、スタイル全体の見直しも図った。トレーナーが父・斉から村田大輔に代わったのも、違う環境で新しい自分の可能性を考えたかったからなのだろう。

 だが、勢いは蘇らなかった。2024年2月、クリスチャン・バカセグア(メキシコ)との決定戦にダウンを奪って判定の末に勝ち、WBO世界スーパーフライ級王座を獲得。3年2カ月越しで4階級制覇の念願を果たしたが、その戦いぶりへの疑念は拭えなかった。そして同年10月、初防衛戦でプメレレ・カフ(南アフリカ)に判定負け。格下とみられたカフを圧倒できず、5ラウンドには右ストレートを浴びて決定的なダウンを奪われた。採点上は1-2でも、言い訳のできない敗北だった。

 2025年6月、引退を表明する。理由は網膜はく離による視力低下だった。井岡戦の前から右目の異常は発症し、手術を繰り返したが完治せず、両目の不調とともに戦ったカフ戦では3ラウンドに右目の視力を失ったという。戦後の手術で視力は戻ったが、視野は回復せず、身を退くに至った。

「花の95年組」は全員、現役で、田中本人も戦力的にはまだまだ伸びしろがあっただけに残念だっただろうが、すぐに気持ちを入れ替えてアクティブに活動している。テレビ解説、講演、イベント出演と積極的にチャレンジし、地元には一般向けのボクシングジムも開いた。「ボクシングが好きなことは今も変わらない」と、インタビューに答えた田中のたくましさは、きっとより良い第2のボクシング人生を生み出してくれるはずだ。

●Profile
たなか・こうせい/1995年6月15日生まれ、岐阜県多治見市出身。3歳で空手を始め、小学5年生でボクシングに転向した。中京高校(岐阜)に進み、アマチュアでは花形として活躍し、高校4冠を達成する。2013年秋にプロ転向、5戦目でWBO世界ミニマム級王座を獲得(世界王座獲得の日本最短記録)。その後も8戦目にライトフライ級、12戦目でフライ級と世界最短ペースで複数階級制覇。2020年、井岡一翔に一度は4階級制覇の試みを砕かれたが、2024年、スーパーフライ級王座を獲得した(世界タイトルはいずれもWBO)。初防衛戦で敗れ、網膜剥離を理由に引退。22戦20勝(11KO)2敗。身長164cmの右ボクサーファイター。抜群のスピードに乗せた攻撃ボクシングが持ち味だった。兄は東京五輪フライ級銅メダリストの田中亮明。

著者プロフィール

  • 宮崎正博

    宮崎正博 (みやざき・まさひろ)

    20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

3 / 3

  • Googleで優先するソースとして追加

Googleの「優先ソース」について

キーワード

このページのトップに戻る