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【プロレス連載】全日本、新日本のレジェンドたちと渡り合った越中詩郎 元東スポ記者が、現役にこだわる理由を明かした (2ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――長州力さんについてはどうですか?

柴田:「長州さんがいなければ、あの頃の新日本は絶対にもたなかった」と断言しています。

――それは、1990年代から2000年代の現場監督時代ですか?

柴田:当時の新日本は武藤敬司や蝶野正洋、橋本真也、佐々木健介などが所属していて、多士済々でみんな自己主張も強かった。長州さんが現場監督としてそのすべてを受け止め、時には自分を殺してまで組織をまとめていたと話していました。

――あの頃の長州さんはピリピリしていましたね。

柴田:私も、時には「アッチ行け」と追い払われ、時には「オイ、柴田。〇〇はどうだ?」と意見を求められました。越中選手の話を聞くと、ピリピリするのも仕方なかったでしょうね。

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――越中選手は長野に移住されましたが、その理由を聞いていますか?

柴田:東京から離れて地方での生活を考えていた越中は、静岡県の熱海や伊豆、千葉県の房総など、温暖な地域への移住を考えていたそうです。しかし、たまたま訪れた長野県諏訪郡原村の空気を奥様が大変気に入られ、移住を決意したと聞いています。標高900〜1300mという高地での生活は、結果的に「天然の高地トレーニング」となり、彼のコンディション維持に役立っているそうです。

――長野での生活はどのようなものなのでしょう。

柴田:夏は草刈り、薪ストーブ用の薪割り、冬は雪かきをしたりと、体を動かすことが生活の一部になっています。日本のマラソン選手が米国コロラド州で高地トレーニングをするように、越中は日々の生活そのものがトレーニングなんです。彼はDIYも得意で、自分で棚や薪置き場を作ったりしています。また、蕎麦屋や温泉が多いことも気に入っているようです。ただ、都内での試合も多いし、各地への移動などもあるので、東京にも拠点はあるようですけどね。

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