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日本ボクシング世界王者列伝:山口圭司 北の大地から世界の頂点へ羽ばたいた「未完の大器」の魅力と浪漫

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

世界王者となった山口圭司は、「未完の大器」のままリングを去った印象が強い photo by AFLO世界王者となった山口圭司は、「未完の大器」のままリングを去った印象が強い photo by AFLO

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち15:山口圭司

 世界チャンピオンであっても、実は未完の大器。そう評したくなるボクサーは幾人もいる。山口圭司もまた、そのひとり。世界タイトル初挑戦こそ敗れたが、その半年後の1996年春、不敗の難敵を攻略してWBA世界ライトフライ級王座を獲得。スピーディーで華やかなアクションを持ち味とするサウスポーは、長く世界のトップに君臨するかと思われたが、2度目の防衛戦で無残な敗北を喫すると、力を十分発揮することなく、やがてリングを去ることになった。(文中敬称略)

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【開拓者の町から育ったスーパースター候補】

 山口圭司と最初にすれ違ったのは1991年の秋、北海道の函館だった。函館大学付属有斗高校3年生だった彼は、その年の全国選抜選手権、インターハイ、国民体育大会と少年ボクシング3大トーナメントをすべて制した。ただし、山口と会話を交わした記憶はまるでない。彼が練習していた現地の桜井ボクシングジムの取材が目的の旅だった。山口は会食をともにしながら、自分の分を食べ終えるとそそくさと席を立ち、言葉をかける間もなく、そのまま去っていったのだ。

 山口が育ったジムの話はたくさん聞いた。すでに80の齢に到達していた会長の桜井房次は函館にうどん屋の倅(せがれ)として生まれ、大正・昭和初期に、さらに奥地へと開拓に向かう人々を見送りながら育った。やがてスポーツで身を立てようと、伝説の野球チーム『函館太洋(オーシャン)倶楽部』入団を目指しながらも夢は叶わず、"ノンプロ"ボクサーになった。芝居小屋の舞台に4本の丸太を荒縄で囲んだ仮設リングで、北海道の強豪たち、中央の大学生と戦った。そして北のジーン・タニー(1920年代、技巧で鳴らした世界ヘビー級チャンピオン)と呼ばれるほど活躍した。ただし、それらの記録は、公式なものとしてはいっさい残っていない。

 戦後、自動車修理の町工場を経営し、隠居の頃合いとなって念願のボクシングジムに改装した。もともと選手時代から独学で指導法もまた同じ。それでも国体の北海道代表を複数名育てたのが自慢だったが、山口が飛び抜けた存在だったのは言うまでもない。

 少年時代から、山口は長身と長いリーチを持つ、冴え冴えとしたアウトボクサーだった。軽やかなステップで距離を保ち、同世代のライバルたちをまったく寄せつけなかった。インターハイを取材した私も、ゆくゆくは五輪ボクサーに育つものと確信した。パワー面、体格面ではまだまだ成長期にあるとみて、アマチュアで戦い続けるほうが大成への近道になるとも思い込んでいた。実際、多くの有力大学も色めき立って山口獲得へと動いていると聞いていた。だが、山口の選択は違った。大阪にあるグリーンツダジムからのプロ入りを選んだ。

「(山口は)うちの井岡弘樹(2階級制覇世界王者)のファンらしくてね。弘樹と話をさせたら、一発だったよ」

 押しの強さでは定評があった津田博明会長(故人)は、のちに呵々大笑(かかたいしょう)とともにスカウトの顛末を話してくれたことがある。

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著者プロフィール

  • 宮崎正博

    宮崎正博 (みやざき・まさひろ)

    20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

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