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佐竹雅昭はK-1休養中、ビートたけしの番組などで活躍 「空手家=食えない」という構図を打破した (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

 当時のギャラは「1本で100万円ぐらいいただいていました」と明かす。収録が終われば夜の街へ誘われ、さまざまな人脈を築いた。もともと「ハリウッドスターになりたい」という夢も抱いていた佐竹にとって、芸能活動は性に合っていたという。

「あの頃は楽しかったです。逆に、楽しくないとあそこまで燃えられなかったでしょう。お金がほしい、といよりも、知らない世界を感じたかった思いのほうが強かったです。『あぁ、テレビの世界はこういうところなのか』と教えられましたし、一流のタレントさんの半端じゃないエネルギーも実感できた。たくさん知らない人と出会って、そこから"人を学ぶ"ということが自然と身についていったと思います。その経験は、今の人生においてものすごく役に立っています」

 そんななかで、将来のビジョンも思い描いていったという。

「静養しながら、『次のステップにつなげるための準備をしないといけない』と考えていました。リングでの闘いは、早めに"定年"がくることがわかっていましたからね。それに、K-1はいつか廃れていくと思っていました。これまでも話してきましたが、K-1の組織は脆弱で危ないなと感じていましたからね。ブームが起きた興行でも、一歩間違えると多額の借金を抱えますし、"絶対"はない世界。だから、格闘技界とは違う方たちから学んでいかないといけないと考えていました」

 リングから離れて1年あまり。活動の場を広げてさまざまな学びを得ると同時に、肉体的なダメージも回復していった。脳へのダメージも、医師からは「これだけ休んだから、以前よりは大丈夫です」と診断されたという。

 そして1996年の夏、K-1事務局から参戦オファーが届く。対戦相手は、同年の5月に初めて「K-1グランプリ」を制覇したスイス出身の空手家、アンディ・フグ。その試合は、初めてゴールデンタイムで生中継することが決まっていた。

(第15回:K-1復帰戦で「青い目のサムライ」アンディ・フグと闘った佐竹雅昭「あの内容が僕の限界だった」>>)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

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