佐竹雅昭が感じていた「K-1崩壊」の兆し ブームとともに「拝金主義になっていった」 (3ページ目)
当時の自身が置かれた状況を、再び戦国時代を例にして次のように振り返った。
「僕は、戦国時代の日本が統一されて江戸幕府ができる前の、群雄割拠の時代を駆け抜けないといけないひとりの"武将"でした。ただ、そういう人間は幕府ができると"使い捨て"になるんです。幕府ができるまでは多くの武将がいましたが、幕府を開くと侍はいらなくなりますよね。そこで必要になるのは、商人です。
K-1もそうでした。幕府ができたあと、周囲から新しい人がどんどん入ってきた。組織作りが得意そうな体で、お金を稼ごうとするコンサルタント的な人もいましたね。そういう人って、根本的にうさんくさいんですよ(笑)」
【大会名で使った「リベンジ」が流行】
K-1グランプリ準優勝の裏で、佐竹は徐々に孤立していったが、その後もリングには上がり続けた。準優勝した大会から約5カ月後の9月18日、横浜アリーナで行なわれた「K-1 REVENGE」のメインイベントでは、アメリカのデニス"ハリケーン"レーンを2ラウンドTKOで破り、WKA(世界キックボクシング協会)世界スーパーヘビー級王座を獲得した。
英語で「復讐」を意味する「REVENGE」と銘打ったこの大会では、過去に敗れた選手が雪辱を期して再戦に挑む試合が目玉となった、1994年のK-1グランプリ1回戦でアメリカの格闘家パトリック・スミスに敗れたアンディ・フグも再戦を行ない、1ラウンド56秒でKO勝利を飾っている。
以来、「リベンジ」は流行語になり、スポーツ界、芸能界など幅広い分野で使われるようになった。
人気が加速したK-1で、舞台裏では「邪魔者」扱いされていると感じていた佐竹だが、表舞台では変わらずにK-1を引っ張っていく。試合スケジュールも過酷だった。レーン戦からわずか2週間後の10月2日、大阪府立体育会館での「KARATE WORLD CUP94」で英国のギャリー・サンドランと闘い2ラウンドTKOで勝利する。
さらに2カ月後の12月10日、名古屋レインボーホールでの「K-1 LEGEND~乱~」に参戦し、オーストラリアの空手家サム・グレコと対戦する。
このグレコとの一戦で、佐竹の体に異変が生じることになる。
(第12回:サム・グレコ戦で自覚した「脳へのダメージ」の蓄積 その後のキモ戦は「キャリアのピーク」>>)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。
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