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佐竹雅昭が感じていた「K-1崩壊」の兆し ブームとともに「拝金主義になっていった」 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

 空手、さらには格闘技界で道なき道を切り拓いた自負があった。事実、リング内外で存在感を発揮した佐竹の強さとスター性がなければ、K-1の成功はなかっただろう。しかし、ブームになると"ステージ"は変わっていった。

「人気が出てくると、当初の理想と現実のバランスが崩れて"拝金主義"になっていきました。(大会を主催、放送する)フジテレビが入ってきて、これまでとは違う路線で進めていった。ショービジネスとして、お金を稼ぐことはもちろん必要なことだったと思います。だけど、拝金主義だけになっていくと、あとは下降線をたどることになる。それは、どの世界でもそうでしょう。振り返れば、第2回のK-1グランプリがあった1994年は、そういう兆しが出始めた時でした」

【徐々に佐竹は「邪魔者」扱いに】

 佐竹は続けて、こう説いた。

「お金がほしい、強くなりたい、異性にモテたい......いろんな欲があります。ただ、欲というのは持てば満たせるものではありません。そこに行動力が伴わなければいけない。あのころのK-1は、欲を満たすための行動を選択する力を養っていなかったのかもしれません」

 そうした違和感を抱くなかで佐竹は、K-1を隆盛に導いた最大の功労者であるにもかかわらず、居場所がなくなっていくことを感じていたという。

「事務局のなかでも、『もう人気選手は佐竹だけじゃない』という考えに変わっていくわけです。そうなると、自分は邪魔者扱い的な立場になっていった。当時、日本人のヘビー級の選手は僕しかいないから、大会を開催するためには僕がいることがマストなんですけど、他にも観客を集められる選手を作って売り込んでいこう、という転換の時期でした」

 時代を開拓した佐竹に対し、「邪魔者」という言葉を使った人物はいたのだろうか。

「直接言われたことはありませんが、影で言っていた。そういう声はすぐに耳に入ってくるんです。ある時には、事務局に置いていたチャンピオンベルトを隠されたこともありましたよ。会場でも、『佐竹、弱いぞ!』という野次を飛ばすサクラなんじゃないかと思うような人が観客席にいたり......他にもいろんなことがあって、僕は邪魔になってきているんだと実感しました」

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