佐竹雅昭が振り返る「熊殺し」ウィリー・ウィリアムス戦と前田日明「リングス」参戦までの激動の日々 (3ページ目)
【前田が旗揚げしたリングスに参戦】
アントニオ猪木とも闘った"熊殺し"に完勝したことで、「佐竹雅昭」の名前は、空手界、格闘技界にとどまらず広く世間に知られることになった。
「あのウィリー戦で初めて、『佐竹、熊殺しに勝つ』と東スポの一面になったんですよ。そこから注目度がグッと上がりましたし、ウィリーというレジェンドとの闘いは僕の格闘技人生での財産です」
ニールセン、ウィリーを退けた佐竹は、ついに前田日明に挑むための舞台に立つ。それは、前田が主宰するプロレス団体「リングス」への参戦だった。
リングスは、新生UWFを1991年1月に解散した前田が、同年5月にたったひとりで旗揚げした。ただ、衛星放送有料テレビ局「WOWOW」と放映契約を締結したことで、資金面は潤沢。オランダを中心にヨーロッパと格闘技ネットワークを構築し、格闘家を招聘するなど徐々に勢力を広げていった。
日本人の目玉選手が前田だけだったリングスにとって、ウィリーを破り、実力だけでなく人気も飛躍的に上昇していた佐竹は、是が非でも欲しい人材だった。紆余曲折を経て、佐竹は「正道会館」の他の空手家と共に、1991年12月7日の有明コロシアム大会からリングスに参戦することになった。
「本当は、前田さんは僕だけが欲しかったようです。僕も同じ気持ちだったんですが、結果的に『リングスvs正道会館』という図式になりました。自分の目的は、前田さんに挑戦して勝って、格闘王になること。だから、細かいことは気にしないでやっていこうと気持ちを切り替えました」
注目の初陣。対戦相手はオランダ人空手家、ハンス・ナイマンだった。顔面へのパンチなしの空手ルールで、2分5ラウンド。佐竹は空手着ではなく、両拳にバンテージを巻き、シューズと脛にレガースを着用したハーフスパッツ姿で登場した。
試合は、1ラウンドから右のローキックを軸に攻め続けた佐竹が、KOこそ奪えなかったものの圧倒。当時は判定勝ちでの決着がなかったため、「5ラウンド時間切れ引き分け」となった。
「寝技抜き、ということであのルールになってドローで終わったんですが、ガチンコの試合だったから面白かったです」
本格的なプロとしてのスタートを切り、前田との一戦へ思いを高めていったが......それは思わぬ形で"終わり"を迎えることになる。
(第8回:前田日明に「勝った」と思った瞬間 石井館長が激怒したリングス最後の試合の内情>>)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。
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