アントニオ猪木を全日本の試合会場に誘った柴田惣一 ジャイアント馬場がひとり、張り詰めた緊張感のなかリング上で待っていた (3ページ目)
【ロスでは、天龍を猪木に引き合わせる】
――前回の記事で話していただいたリック・フレアーはハワイ、そして今回の馬場さんは岡山と、柴田さんはさまざまな場面で、猪木さんにいろんな方を引き合わせていますね。
「あとは、天龍源一郎さんを猪木さんに会わせたこともありますよ。1989年に全日本プロレスのアメリカ遠征があり、それに同行取材した時です。全日本の最後の滞在先がロサンゼルスだったんですが、ロスといえば猪木さんですから」
――ロサンゼルスと猪木さんは縁があったんですか?
「1964年、21歳の猪木さんは海外武者修行でロサンゼルスに滞在していて、以降も頻繁にロスを訪れていました。その影響なのか、娘の寛子さんもロサンゼルス在住です。猪木さんは、ホテルとジムが併設された『ロサンゼルス・アスレチッククラブ』にいることが多かった。それで1989年に、天龍さんと一緒にアスレチッククラブに行ったら、猪木さんがいたんですよ」
――その時、2人はどんな話をしたんですか?
「それは分かりません。猪木さんと馬場さんの時もそうですが、僕は引き合わせはしますが、レスラー同士の会話に入るのは失礼だと思っているので2人きりにします」
――天龍さんは、ライバル団体のトップ選手である猪木さんの「卍固め」「延髄斬り」などを使用していましたね。当時は、他選手のオリジナル技を別の選手が使うのはご法度。長州力さんのサソリ固めを藤波辰爾さんが使用した際は、実況の古舘伊知郎さんが「掟破りの逆サソリ」と表現していました。
「『掟破り』と言ったら、最初は猪木さんかもしれません。あれは、1980年9月25日の広島県立体育館でのこと。その2週間前、大阪でリングアウト負けしたハンセンが、リベンジに燃えて猪木さんのNWFヘビー級王座に再挑戦したんです。
ハンセンは猪木さんを圧倒的なパワーで追い込んでいったんですけど、猪木さんが『掟破りの逆ウェスタン・ラリアート』をぶち込み、最後は逆さ抑え込み。ハンセンから初めてピンフォール勝ちした一戦です。この時に初めて、『掟破り』という言葉がプロレスの世界に持ち込まれたんじゃないかな。まあ、ハンセンの技は『ラリアート』で、長州さんのは『ラリアット』ですし、この時に猪木さんが使ったのも『違う技だ』という説もありますけどね。
そうそう、猪木さんが得意としていた『コブラツイスト』を馬場さんが使ったこともありましたね。そこで、負けず嫌いの猪木さんが『卍固め』を開発したという話もあります」
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