アントニオ猪木を全日本の試合会場に誘った柴田惣一 ジャイアント馬場がひとり、張り詰めた緊張感のなかリング上で待っていた (2ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――1980年代は、新日本と全日本による引き抜き戦争が勃発。1981年5月に新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜くと、全日本は同年7月にタイガー・ジェット・シン、同年12月にスタン・ハンセンを引き抜きました。その後も、さまざまな選手が両団体の間で移籍しましたね。

「僕が猪木さんを全日本の会場に連れて行った岡山大会は、アニマル浜口さんや長州力さんの『ジャパンプロレス』や、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスの『ブリティッシュ・ブルドッグス』が新日本から全日本に移籍する半年前ですね。猪木さんと一緒に、岡山駅から会場の岡山武道館まではタクシーで移動したんですが、まだカメラマンが会場に来ていなかった。スマホどころか携帯電話も普及する前ですから、急いで使い捨てカメラを購入していろいろ撮った記憶があります」

――全日本プロレスの関係者に、事前連絡はしなかったのでしょうか?

「確か、仲田龍リングアナには連絡したかな。いざ会場に到着すると、ピーンと張り詰めた緊張感があった。開場前はレスラーがリングの周りで練習しているものなんですけど、その時はひっそりとしていて、リング上にひとり、ジャイアント馬場さんがいたんです」

――他のレスラーは周囲にいなかったんですね。

「馬場さんから指示があったのかもしれないですね。それで『猪木さん、馬場さんがリングにいますよ』と声をかけたら、猪木さんがリングに近づいていって。とりあえず猪木さんを誘導して軽く談笑し、適当なところで離れました。2人は20分前後、にこやかに話し込んでいましたね。『週刊ファイト』の写真には、馬場さんと猪木さんの間に僕が映り込んでいて、『こいつは誰だ!』とプロレスファンたちに騒がれましたよ(苦笑)」

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