里村明衣子が語る、15歳から始まった壮絶プロレス人生 初戴冠後、「本当のチャンピオンじゃない」と愕然とした (3ページ目)

  • 尾崎ムギ子●文 text by Ozaki Mugiko

 1980年代、社会現象を巻き起こしたクラッシュ・ギャルズのイメージカラーは、ライオネス飛鳥が青、長与千種が赤だった。クラッシュ解散後にGAEA JAPANを旗揚げした会社は、加藤に青、里村に赤の水着を着せ、"第二のクラッシュ・ギャルズ"を誕生させようと構想した。しかし、クラッシュをリアルタイムで見ていなかった里村は、「私はそれを望んでいなかった」と話す。

 クラッシュの栄枯盛衰を描いた『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(柳澤健/文藝春秋)の中で、GAEA JAPAN3期生の広田さくらはこう言っている。「私たちは長与選手に飼われていた」――。

「飼われてはいないです。全員が団体を大きくしようとストイックになりすぎていた。月に1回の後楽園ホール大会を、最低でも満員にする意気込みでやっていて、実際に10年間、満員でした。私はあの経験をして本当によかったと思っています。今後、あの時代よりも厳しいことは絶対に経験しないでしょうから」

 2000年に公開されたイギリスのドキュメンタリー映画『ガイア・ガールズ』で、GAEA JAPANの選手たちは軍隊さながらの厳しい生活を送っていることが描かれている。里村はあの映画を観た時、「こんなもんなんだ」と思ったという。

「映画で描かれた厳しさは、実際の10分の1にも満たないくらいです。徹夜で練習しているシーンとかもなかったですけど、実際は1カ月のうち1週間は徹夜してましたから。ビッグマッチの前日は寝たことがないです。寝ずに練習しろと。試合前の準備も忙しかったので、『寝ちゃいけない』という考えが植えつけられていました」

 厳しさのあまり、新人が入っては辞め、入っては辞めていく。下が育たなかったために、里村は長与の付き人を7年間も務めることになった。

【客を呼べないチャンピオン】

 1999年、初めてのタイトルマッチに臨んだ。対戦相手はアジャコング。恐怖心を克服するために朝から晩まで練習し、自分を追い込んだ。追い込みすぎてベスト体重から7kg落ちた。試合に敗れ、長与に言われた。「対戦相手に失礼だ。それじゃ敵わないよ」――。

「とにかく、『自分の限界を更新していかなければいけない』と思っていたんです。前回の試合よりも、もっとすごいものを見せなきゃいけない。お客さんが求めるものもどんどん大きくなってくるので、それに乗っからなきゃと思って、ずっと追い込んでいました」

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