里村明衣子が語る、15歳から始まった壮絶プロレス人生 初戴冠後、「本当のチャンピオンじゃない」と愕然とした (2ページ目)
保育園の時、建設業を営んでいた父は知り合いの保証人になり、莫大な借金を負った。両親もふたりの姉も、お金のことでケンカが絶えず、家庭は荒れていった。「とにかく早く家を出たい」という気持ちが募っていった。
家庭が荒れるなか、中学2年生の春にプロレスと出会った。姉に連れられて新日本プロレスを観戦し、ひと目でハマった。女子プロレスの存在を知らなかったため、「私が世界で最初に女子プロレスを作ってやろう」と思ったが、姉から女子プロレスがあることを聞き、レンタルビデオ屋で女子プロレスのビデオを借りた。
1993年4月2日、全日本女子プロレス横浜アリーナ大会。里村は「女がプロレスをしても大したことないだろう」と思っていたが、とんでもなかった。北斗晶、神取忍、豊田真奈美......。彼女たちの激しくも美しい闘いを見て、「世の中にこんなに強い女性がいるんだ!」と衝撃を受けた。
テレビで女子プロレスのドキュメンタリーが放送された。試合の舞台裏で、新人選手が先輩の付き人として雑用をするシーンを観て、「自分もここで修行したい」と思った。
「スターになる前はこういう苦労があるんだ。スポットライトを浴びているだけじゃないんだというところにすごく感動して。ここで修行したら、人として成長できると思いました。柔道よりも、もっと厳しいことに挑戦したかったんです」
両親には「女の子なんだから」と反対されたが、「だからやるんじゃん」と思った。人と違うことをしたいからこそ、わが道に行く。自立心の強い里村にとっては当然の選択だった。
【1カ月のうち1週間は徹夜で練習】
1994年、長与千種率いるGAEA JAPAN(ガイア・ジャパン)の旗揚げを知る。年功序列に関係なく、練習も自由な時間に来ていいという。人数が少ないため「すぐにトップになれる」と思ったこともあり、オーディションを受けた。中学で自ら柔道部を設立し、3年生の時に県大会で優勝した里村は、トップの成績で合格した。
1995年1月に入門。中学3年生だったが、3学期は学校に行かなくても卒業できるように、校長が教育委員会に掛け合ってくれた。
4月15日、後楽園ホールでの加藤園子戦にて、史上最年少レスラー(15歳)としてデビュー。新人とは思えない闘いを見せ、ほかのデビューした新人たちと共に「驚異の新人」と呼ばれた。
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