東京女子プロレス・角田奈穂が振り返る、保育士と女優時代の苦悩 「崖っぷち」の状態でリングに賭けた (2ページ目)
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角田は1987年、千葉県東金市に生まれた。父親は市役所の職員、母親は公立保育園で働く公務員保育士。3つ上の姉がいて、祖父母も同居していた。
両親は厳しく教育熱心で、角田は3歳からピアノを習い始め、幼稚園から公文の教室に通った。夜、眠くても泣きながら宿題をやったのを彼女は今でも鮮明に覚えている。エレクトーン、英会話も習い、小学校低学年から塾にも通った。姉が通う塾に親が頼み込み、特別に教材を取り寄せてもらって、姉が授業を受けている教室の後ろで一人、テキストを進めた。ほぼ毎日習い事があり、ひとつ終わったら車で次の習い事に移動することもあった。
「テストで98点を取った時、母に見せたら『なんでその1問を間違えたの!?』って怒られたんですよ。子供ながらに、褒められたかったはずだよなぁって、いまだに思い出します」
子供の頃から、人の顔色を窺って生きてきた。友だちと話した帰り道、必ず心の中で反省会をする。自分が何を言ったか思い出し、「あの言い方、嫌味じゃなかったかな?」と考える。次に会った時、「あの時さ」と言うと、「え、なにが?」と言われる。自分が気にしすぎていて、相手は気にしていないことがほとんどだ。それでも大人になった今も、反省会をやめられない。「もうちょっと気楽に生きたいと思うけど、性格ですね」と苦笑する。
小学校では学級委員を務めた。委員長、副委員長、書記......役職が変わっても、常に学級委員のどこかのポジションにいた。「典型的な"いい子ちゃん"タイプだった」と当時を振り返る。吹奏楽部だった姉の影響で金管部に入り、トランペットを吹いた。母の言うことを真面目に聞いていたが、自由奔放な姉への憧れがあった。
中学に上がると、「いかに内申点を上げて推薦で高校に入るか」だけを計算して生活するようになった。勉強を頑張り、学級委員を務め、合唱コンクールでピアノの伴奏を担当し、ボランティアもした。吹奏楽部の活動にも打ち込んだ。努力の甲斐あって、小学校の頃から行きたかった地元の進学校に推薦で進学した。
高校では帰宅部。姉のように自由気ままな高校生活を送りたかった。しかし親に「部活かバイトをしなければ予備校に行かせる」と言われ、1年生の10月から慌てて部活に入った。男子バレーボール部のマネージャーだ。
「完全に『タッチ』(小学館)の浅倉南ちゃんへの憧れですね。夏休みにテレビで『タッチ』のアニメを観て育った世代なので。インターハイを狙えるような強い学校ではなかったけど、すごく楽しい思い出です」
マネージャーをやったことで、トレーナー学科がある専門学校に行きたいと思うようになった。担任の先生には「この学校に来て専門学校に行く奴は全員落ちぶれている」と反対され、せめて母親と同じ保育の学科に行くことを勧められた。そして体験入学を経て、チャイルドスポーツ科に特待生として進学した。
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