ケンコバが語る「ハンセンがハンセンじゃなかった試合」全日本のリングで見せた珍しいファイト (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 平工幸雄/アフロ

【ダンカン・ジュニアに見えた危機感】

――ハンセンが自分自身を否定した、ということですか?

「そんなに答えを急がないでください。少し前置きが長くなりますが、説明していきましょう。

 当時は、異様にジョニー・スミスの評価が上がってきた頃でした。スミスが全日本のマットに初参戦した時には、彼が外国人レスラーの常連になるなんて誰も思っていなかったはずです。

 ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスなどを輩出した『カナダ・カルガリー系』のレスラーのわりには、キッドのように鋼のような筋肉をまとっているわけではなく、体はポッチャリとしていた。ロングヘアも中途半端で、多くのファンは見た目のインパクトに欠けているという印象があったんじゃないかと思います」

――スミスは英国ワーリントン出身で1982年にデビュー。85年からカナダ・カルガリー地区のマットを主戦場にしたことがきっかけで、キッド、デイビーボーイ・スミスの指導を受け、89年2月から全日本に本格参戦した選手でした。

「ただ、外見はパッとしなかったんですが、試合になるとドロップキックを決めた後のヘッドスプリングとか、当時の他のレスラーがやっていなかった動きを取り入れたりして、来日するごとに人気が上がっていって常連になっていきました。しかも、どんな試合でも全力ファイトで、負けたとしても簡単にピンフォールを取られる男じゃなかった。だから、今回紹介する6人タッグでも会場での一番人気はスミスだったんです」

――確かに、リングアナウンサーがコールした時もスミスへの声援は大きかったです。そのスミス人気が、ハンセンの心の叫びにつながったんですか?

「そこじゃないんですよ。問題は、会場人気が沸騰していたスミスに対して『俺も負けてたまるか』と頑張ったボビー・ダンカン・ジュニアなんです。

 この試合でダンカン・ジュニアは、オブライトに投げられ、高山選手に膝を叩き込まれ、垣原選手に掌底を食らいながらも必死に抵抗していた。相手に食らいつき、彼なりに頑張ったんです。やられても、ロープを掴みながら『ウォー!』と叫んでアピールもしていましたね。スミス人気を受けて危機感を抱いたんでしょうし、その頑張り自体はいいことなんですけど、問題の核心はそこにあったんです」

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