ジャンボ鶴田を変えた天龍源一郎との「鶴龍対決」 そのラストを実況した若林健治アナは、ふたりの対極的な姿を目撃した (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

【鶴田と天龍は「両極端」】

 馬場が掲げる「受け身」を重視する王道スタイルを、そのまま表現した鶴田。それは、アメリカのマットでは通用するプロレスだったが、当時の日本では"魅せる"要素に加え、観客に"闘い"を感じさせるスタイルがファンには好まれていた。

 若林アナが鶴田の変化を感じたのは、1987年のことだった。

 1985年1月から全日本のマットに参戦していた、長州力率いる「ジャパンプロレス」が1987年3月いっぱいで分裂し、長州らが新日本プロレスに復帰。全日本のリングに熱を生み出していた日本人対決がなくなって"空洞化"した。

 その穴を埋めようと立ち上がったのが天龍源一郎だった。阿修羅・原と2人で行動を起こし、鶴田に刃を向けた。地方興行でも手を抜かない全力ファイトを展開し、それは「天龍革命」と呼ばれ、沈滞した全日本のリングが再び熱を帯びるようになった。

 そして、1987年8月から始まった鶴田と天龍の一騎打ち「鶴龍対決」が全日本の看板カードになった。鶴田も感情を前面に出すようになり、さらに強さを増していったが、若林アナは「鶴田さんを本気にさせたのは、天龍さんの行動だったと思います」と振り返る。

 ただ、「ふたりはリングを離れても両極端」と感じる思い出があるという。

「ある日、鶴田さんたちと日本テレビのスタッフとで、中華料理店に行ったことがあったんです。その時、鶴田さんは北京ダックなど高価なメニューを食べていて、『若林さんたちも北京ダック食べてよ』と勧められたんです。

 ところが、鶴田さんの付け人のようにその場にいた渕正信選手は、五目そばを食べていたんです。私はその姿を見て、心の中で『なんで渕には五目そばなんだ。渕にも北京ダックを食べさせてやれよ』と思いました」

 そんな若林アナの気持ちを察したのか、鶴田は渕にこう言ったという。

「いいか、渕。北京ダックを食べられるように早く強くなれ」

 後輩レスラーに対しての待遇を厳しくし、そこから這い上がろうとさせるのが鶴田式の育て方なんだ、と若林アナは実感したという。

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