【国際プロレス伝】ラッシャー木村、「金網デスマッチの鬼」と呼ばれた男 (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

「木村さんは角界から来たでしょ。(相撲界では)かなり期待されていた若手で、あのままやっていたら、十両や幕内はもちろん、三役、その上まで行ったかもしれなかったそうです。

 相撲で鍛えられているから、とにかく頑丈でした。身体の強さはケタ外れで、国際プロレスで文句なくナンバー1だったんじゃないですか。メチャクチャ強くて、特に顔なんかすごかったですよ。こっちがどんなに力いっぱい顔を叩いても、張っても、ビクともしない。それどころか、しまいにはこっちの手がしびれあがって、真っ赤に腫れたものです。もちろん、相撲時代に四股やすり足をしっかりやっているから、下半身も安定していました」

 大相撲廃業から1ヵ月後の1964年10月に日本プロレス入りを果たした木村は、翌年4月、東京・渋谷のプロレス会場「リキ・スポーツパレス」にて高崎山猿吉(たかさきやま・さるきち)戦でデビューを果たした。だが、大相撲の先輩である豊登(とよのぼり)の付き人をしていたことから、1966年には豊登による東京プロレス旗揚げに参加。翌年、東京プロレスが崩壊すると吉原功(よしはら・いさお)に誘われ、国際プロレスに移籍した。ちなみに、リングネームを「ラッシャー木村」へと変更したのは、国際プロレスに移ってからである。

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