大林素子が「サインがほしくて」出した手紙が招いた人生の転機。日立の練習に参加して「久美さんに睨まれました(笑)」 (3ページ目)
「明日からうちの練習に来ていいよ」
――中田久美さんは、1980年に史上最年少の15歳(中学3年生)で全日本に選出され、翌1981年から日立でプレーしていましたね。
「日立には江上さんや久美さんなど、のちの1984年ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得する方がたくさんいましたね。そうして"全身、全日本"な格好になった私は、やはりロス五輪銅メダルメンバーの小高笑子さんと同じライトに入りました。それで久美さんのトスを打つことになるんですが......そのトスが速くて、空振りっぽくなった時には久美さんに睨まれて(笑)。久美さんからすると、『私のトスが悪いの?』みたいな感じだったんでしょう。
終始、何もできませんでしたけど、江上さんとハイタッチできましたし、2歳上の久美さんのすごさも感じることができた。久美さんは、最初は怖かったですが、練習が終わったあとに真っ先にサインをしてくれて、写真も一緒に撮ってくれました。結局は全員の選手のサインと、練習で使った江上さんのユニフォームもいただいて。更衣室でマネージャーさんに声をかけられず、違うユニフォームを選んでいたら一生後悔していたかもしれません(笑)」
――帰る際、山田監督とは何かやりとりをしましたか?
「本当に充実した時間を過ごさせていただいたので、心から『ありがとうございました』とお伝えしました。すると山田監督は、『練習を見させてもらったけど、正直なところまだ"使えない"。でも、君が本当にオリンピックに行きたかったら、明日からうちの練習に来ていいよ。そうしたら次のオリンピックに出られるかもしれない』という言葉をかけてくださったんです。おそらくお世辞だったと思いますが、その真意は山田監督に聞けずじまいでしたね。
その言葉を真に受けた私は、『よし、本当にオリンピックを目指そう』と決意します。翌日から、中学の部活を終えたあとに自転車で日立の体育館に行って、夜の6、7時から練習をしました。あれだけ練習が嫌だった私が、サボることなく毎日です。当時の日立には中学生のクラブチーム『ロサンゼルス・エンジェルス』というチームがあり、そのメンバーの方々と練習していました。時には日立の3軍の選手たちと練習させていただくこともありましたね。中学2年生の時に出した1通の手紙で、バレー人生が大逆転しました」
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