江畑幸子が復帰を目指すも引退を決断したリアルな経緯。最後の練習では涙をこらえきれなかった (4ページ目)

  • 中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari

 2部のチームが1部チームをストレートで下すことは異例中の異例だ。PFUはかなり有利な状況で2日目を迎えたが、その日は江畑の調子が上がらなかったこともあって、第1、第2セットを連取された。そのまま第3セットも取られるとセット率で並び、得失点差で昇格できない可能性もあったが、何とか耐えてそのセットをモノにした。

「日立時代も含めると、私は入れ替え戦を何度も経験していますが......あらためて、簡単に勝てるものではないということがわかりました。昇格を決められた時はほっとしました」

 Vリーグで再び輝きを放った江畑は、2016年度の日本代表のメンバーに登録された。アキレス腱をケガしたことにより、リハビリ期間中に行なわれたW杯はテレビで見ていた。2010年に初招集されてから、そういった形で代表の試合を見るのは初めてだったが、「ここに戻りたい」という思いが強くなったという。

 しかし、リオ五輪の出場権をかけた2016年5月の世界最終予選のメンバーに、江畑の姿はなかった。直後のワールドグランプリには出場したが、江畑も「なかなか『当たりの日』がこなくて、いいプレーができなかった」と振り返るように、リオ五輪の最終メンバー12人に残ることはできなかった。

「その年は少し早い段階で、『私は最終メンバーには入らないだろうな』という予感があって。そう思っていたからプレーがよくなかったのかもしれないですけど、監督に落選を告げられた時も、『わかりました』と冷静に受け止めました。リオ五輪はテレビで見ましたが、悔しい思いなどはなく純粋に応援していましたね」

 その後、江畑はPFUでプレーを続けたが、昨年には右ひざを手術するなど、再度ケガに悩まされた。手術後は懸命にリハビリを行なったもののコートには戻れず、この春に引退を決意した。

「ひざの状態がずっとよくなくて、『全力でプレーをするのはもう無理かな』ということはわかっていました。それでもトレーニングやリハビリを続けていたんですが......チームにいる2人のトレーナーさんのうち、ひとりが常に私についている状態だったので、チームに申し訳なかった。復帰を目指していたのが、だんだんと『早めにやめたほうがいいんじゃないか』という考えに変わってきたんです」

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