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高橋みゆきのバレー人生。愛称「ニッポンの元気印」には違和感もあった (4ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

――吉原さん、竹下さんの当時の印象は?

「トモさんは、見た目は少し怖そうだけど(笑)、コートを離れたら普通に話しますよ。プレーに関しては怒ることもありますが、それは必要だったこと。オリンピックに出場した経験から『この程度じゃだめ』と、みんなに教えてくれて、そこにいてくれるだけで安心感がありました。トモさんも『何かあったら言っていいよ』と話してくれていた。ある試合で、トモさんのサーブレシーブがきっちり返らない時に『トモさんどいて』とハッキリ言ったこともありましたけど、チームが勝つために自然に受け入れてくれました。

 テンさんは本当に妥協しない人。納得するまで練習を続けて、その姿にみんなが引っ張られていました。私は、チームが苦しい時にテンさんにトスを上げてもらえる選手になりたかったので、コンビ練習、スパイク練習も毎日やって、1本ごとに『こうしてほしい』と伝えていましたし、逆にアドバイスをもらうこともありました。でも、私からいろいろ言わなくても、ほとんど理想的なところにトスが来るんですけど(笑)」

――アテネ五輪への出場を決めたのは、2004年5月に行なわれた世界最終予選の韓国戦でした。その時のことは覚えていますか?

「いよいよあと1点になった時は、泣きそうになっちゃいました。シドニーからの4年間、柳本さんが監督になってからの2年間のことが、頭の中で渦巻いていましたね。『最後まで何が起こるかわからない。気を抜いてはいけない』と自分に言い聞かせてはいましたけど、あと1点で決まるとなったら、そりゃあ少しは気が抜けますよ(笑)。最後の1点が決まった時も、『嬉しい!』というより、『ホッとした』という感情になりました」

――アテネ五輪の結果は5位でしたが、本戦はいかがでしたか?

「小さい頃から夢に見ていた初めてのオリンピックは、『いつもどおり』と思っていたんですが、最後までどこかフワフワしている感じでした。まったく思うようにプレーできなくて、すごく情けなかったです。

 目標が『オリンピックに出ること』だったので、すぐに『次はオリンピック本戦で勝つ』と切り替えることが難しかったこともあったのかと。最初からオリンピックのメダルを狙っている国とは全然意識が違いました。自分の精神的な未熟さを感じましたし、大会が終わった時に『何やってんだろう』と思った記憶しかないですね」

(後編につづく)

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