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栗原恵が振り返る成長の記憶。
バレー大好き少女は挑戦を続けて強くなった (3ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

――アテネ五輪の本戦は、予選グループを2勝3敗の4位で決勝トーナメントに進んだものの、準々決勝で中国に敗れて結果は5位。厳しい試合が多かったと思いますが、初めての五輪はいかがでしたか?

「日本は、その前のオリンピック(2000年のシドニー五輪)出場を逃していたこともあって、本当にたくさんの方に応援してもらいました。当時の主将だった吉原(知子)さんが、大会前からミーティングでオリンピックについての話をしてくれていたのですが......私は『オリンピックはすごいもの』というイメージを大きくしすぎていた部分があったのかなと思います。個人としてもチームとしてもなかなか結果が出ず、苦しい、悔しいという思いが強かった大会でした」

自らのキャリアを振り返る栗原 photo by Tanaka Wataru自らのキャリアを振り返る栗原 photo by Tanaka Wataru――アテネ五輪が終わって間もない2004年10月、栗原さんはNECレッドロケッツからパイオニアレッドウィングスに移籍します。その決断をした理由を教えてください。

「高校時代から、パイオニアで指揮を執っていた(アリー・)セリンジャー監督のもとでプレーしたい気持ちが強かったんです。もちろんNECにもお世話になりましたし、Vリーグを1年しか経験していない私がそんな決断をしていいのかなど、さまざまなことを考えました。でも、最後は自分の意思を貫かせてもらい、本当に感謝しています」

――当時パイオニアを率いていたセリンジャー監督は、現役時代にイスラエル男子代表としてプレーし、引退後はアメリカ女子代表やオランダ男子代表を率いて、それぞれ五輪の銀メダルに導いた名将です。栗原さんは、指導者としての魅力をどこに感じたんでしょうか。

「セリンジャー監督の指導はすべてが新鮮でした。例えば、『助走の動き出しが0.8秒速くなったら、トスにバッチリ合う』など、それまで自分になかった感覚から言葉が出てくるんです。やったことがないブロードやクイックも打つことがあって、それを私が『無理です』と言ったら、『日本人はすぐ無理と言う。やってみないとできるかどうかわからないじゃないか。最終的な判断は監督がするからやってみよう』と。そんなことも初めてでしたね」

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