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【男子バレー】男子ボールゲームで唯一の金メダルを獲った男、松平康隆の生涯 (4ページ目)

  • 中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
  • 共同通信●写真

 当時最高のライバルと目されていたソ連、東ドイツのうち、東ドイツとは国交がなく、招待試合を行なうことができなかった。しかし試合を行ない、データをとらなければ勝利はおぼつかない。そう考えた松平は、当時の外務大臣、愛知揆一の元へ夜討ち朝駆けではせ参じ、「国名を東ドイツではなく、DDRとするならば認めましょう」という言質を得る。

 そしてその日のうちに東ドイツに飛び、東ドイツ・スポーツコミュニティの責任者と折衝をはかった。松平の熱意に動かされた両政府は、招待試合の実現に向けて動き始め、「ナショナルチームを派遣するが、東ドイツ国内ではライプツィヒ選抜軍と発表する。国旗・国歌の演奏はしない。また、DDRと表示した際に小さくてもいいからライプツィヒの名前も入れる」ということで折り合いが付き、実現することができたのだった。

 東ドイツの監督を務めている人物の小学校からの成績表を取り寄せ、その性格を把握しようとしたこともあった。

 そして、いよいよミュンヘン五輪が始まった。予選は順調に勝ち上がり、準決勝ではブルガリアに2セットを先取された。松平は「これから2時間やろう」と声をかけ、大逆転して決勝に進んだ。

 決勝の東ドイツ戦では、松平のスタメンの予想がぴたりと当て、3-1で見事優勝をつかみ取った。
(続く)

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