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ラグビー日本代表・伝説のLO林敏之 2メートル級の巨漢に「壊し屋」はひるむことなく立ち向かった (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【愛称「ダイマル」の由来は...】

 林は1960年、徳島県徳島市生まれ。父は立命館大ラグビー部出身の高校教師だったが、林少年は小学5年生から中学までサッカーに熱中した。しかし中学のクラブ選択で、父の影響もあってラグビー部へ。そこで楕円球の魅力に初めて触れた。最初のポジションはSOだったという逸話も残る。

 地元の徳島・城北高に進学すると、すぐに生涯のポジションとなるLOへと定着。花園(全国大会)には届かなかったが、高校2年生で高校日本代表候補、高校3年生では高校日本代表としてオーストラリア遠征を経験した。

 高校卒業後は、高校日本代表のコーチを務めていた岡仁詩監督に誘われて、関西の名門・同志社大へ。林は入学した早々、漫画『プロゴルファー猿』の主人公、猿丸の弟・大丸に似ていることから「ダイマル」と呼ばれるようになり、その愛称は海外でも「MARU」として親しまれた。

 大学では1年時からレギュラーを獲得するも、大学選手権では苦杯をなめ続けた。1年時は準決勝で、2年時は決勝で明治大の前に涙をのむ。

 雪辱を果たしたのは大学3年時。決勝で再び明治大と対戦し、林のトライなどで11-6と勝利。ついに同志社大初の日本一に輝いた。4年時は主将を務めたが、大学選手権の準決勝でまたしても明治大に敗れ、連覇はならなかった。

 大学卒業後は「神鋼・育ての親」である亀高素吉専務(当時)に誘われ、まだ優勝経験のなかった神戸製鋼へ。入社当初は結果が出なかったが、1985年度の全国社会人大会準決勝で当時V7中の新日鉄釜石を12-9で撃破。釜石のV8を阻止するという大金星を挙げた。だが、決勝ではトヨタ自動車に敗れ、初優勝はお預けとなる。

 1986年度、林はキャプテンに就任するも、全国社会人大会の準決勝で新日鉄釜石と引き分けて抽選負け。翌1987年度はチームのスクラム強化のためPRに転向するも、1回戦で東芝府中に15-16で敗退。ここで林は主将の座を退いた。

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