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堀越正己は糸を引くような美しいパスで日本ラグビーを席巻 身長158cmでも「僕に居場所を教えてくれた」 (3ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【けじめをつけないといけない】

 日本代表の初キャップを獲得したのは1988年10月。早稲田大2年の時に選出されたオックスフォード大学戦だった。そこから11年間に渡り、桜のジャージーを着て活躍する。

 1989年5月には「宿澤ジャパン」の一員として、スコットランド代表を撃破した名試合も経験。村田亙とポジション争いを繰り広げ、1991年ワールドカップでは善戦したアイルランド代表戦や初勝利を挙げたジンバブエ代表戦など、正確無比なパスで高速アタックを演出した。

 社会人では、平尾誠二に誘われて神戸製鋼に入社。日本選手権4連覇以降のV7に大きく貢献した。

 V7を達成した2日後、阪神淡路大震災が神戸を襲った。キャプテンに就任した堀越は、復興へと歩み始めた街を盛り上げるべく奮闘した。しかし、チームをV8に導くことができず、翌シーズンも優勝に手が届かなかった。

 責任感の人一倍強い堀越は「キャプテンとして、自分なりのけじめをつけないといけない」と現役引退も考えたという。しかし、周囲の説得もあって再びグラウンドに戻り、紅いジャージーをまとって現役を続行した。

 引退を決意したのは30歳の時。1999年の日本選手権・東芝府中戦の敗戦を最後に、惜しまれつつもユニフォームを脱いだ。

 引退後は神戸製鋼に残ろうと思っていた。その矢先、地元・熊谷にある立正大からラグビー部監督のオファーを受ける。

 街に恩返ししたいという思いは、神戸時代から変わらない。堀越は立正大のオファーを受けることにした。また、女子ラグビーの強化にも奔走し、7人制ラグビーのクラブ「ARUKAS KUMAGAYA」の設立に伴い、チームのGMにも就任した。

 そこから26年──。堀越は地元・熊谷を拠点に、若手の育成に携わり続けている。

「ラグビーは、居場所と役割と出番を、僕に与えてくれた」

 小柄な体が理由で野球からラグビーに転身した堀越の言葉には、説得力がある。

著者プロフィール

  • 斉藤健仁

    斉藤健仁 (さいとう・けんじ)

    スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。

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