ラグビー元日本代表主将・堀江翔太「キャプテンシー全然ないんです(苦笑)」引退を機に振り返るプロ生活 (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

――パナソニックの前身、2009年に三洋電機時代にワイルドナイツに入った最後のプレーヤーでしたね。

 今年で16年目、まるまる15年ですね。コリー(ホラニ龍コリニアシ)さんも含めて、みんなコーチになっていますよね。10歳からラグビーを始めましたが、三洋電機で過ごして、1年目はラインアウト放れない、スクラム組めない、ただボールを持って動けるだけの選手。そんな自分が日本代表に行けたので感謝しています。運良く、いい人たちと知り合って、いいラグビー人生を送れたかなと思います。

――1年目からプロ選手でしたね。

 ホンマに社会人になって、すぐにプロ選手になりました。初め、普通に会社員をしながらプレーしようと思っていろいろ探していました。(帝京大の)キャプテンをやっていて真面目だったので、あるチームに会社の説明をされて、そういうことをしないとあかんのかと思いながらいろんなチームを回っていた中に、帝京大に来ていたコーチの流れでニュージーランドのカンタベリーアカデミーから誘いがあり、2年間プレーしました。そしてレンタル移籍という感じで、カンタベリーのつながりでサニックスか三洋電気(現パナソニック)を提示されて、開幕数週間前によくわからない僕を(三洋電機)の飯島(均/現GM)さんが採ってくれて、そのままプロ選手となりました。感謝しています。

――ところで、海外挑戦した一番の理由は?

 海外に行くのはめちゃくちゃ大嫌いでしたが、僕は誰よりも負けず嫌いだったので、同期に負けたくないという思いが最初にありました。どんな相手にも絶対に勝てるような自信、スキル、技術を身につけたいということがモチベーションでした。大学の同期には早稲田大の五郎丸(歩)、権丈(太郎)、畠山(健介)、慶應義塾大の山田章仁とか、早慶明の選手が有名で、僕は二番手、三番手くらいで、まあまあラグビーがうまいくらいの選手でした。(大学時代まではバックローでしたが)上を目指すなら、絶対フッカーじゃないとあかんと思っていましたし、妥協したらあかんという思いもあって、失敗しても日本代表に返り咲けるので、オールブラックスも目指していましたね。ミスっても一生懸命うまくなろうとすればおつりがある。

――まるまる15年、移籍せずにワイルドナイツ愛を貫きました

 ホンマに、移籍したいと思ったことはなかった。試合に出られないという思いがなかったところが一番大きいかも。僕らの世代は2015年、2019年W杯の頃のラグビーバブル世代とは違い、ラグビーがガーンって上がることはなかった。もしかしたら20代で、破格の額を提示されたら移籍したかもしれないですけど、2011年W杯の後に、(NZの)オタゴやスーパーラグビー(のレベルズ)にも行かせてくれたという恩義もありました。実は、ワイルドナイツは僕がNZに行っているときも契約してくれていて、少し減りましたがお金を出してくれた。日本でまったく試合に出なかったらお金を出さないチームもあるので、ありがたかったです!

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