中国を震撼させた平野美宇。「マーベラス・ミウ」誕生までの道のり (3ページ目)

  • 城島充●文 text by Jojima Mitsuru
  • photo by AFLO

 リオ五輪の女子代表3人が決まった2015年9月、世界ランキングで石川と福原、そして伊藤に及ばなかった平野は、失意の中で大きな決断をした。

 相手のミスを待つ守備重視から攻撃型へ、プレースタイルを変えたのである。

「格下の選手には安定して勝てるけど、格上の選手に勝つ武器が私にはない。今の壁を突き破って東京五輪に出場するためには、そう決断するしかありませんでした」という言葉が、筆者の取材ノートに刻まれている。

 だが、幼少期から培ってきた土台をいったん破壊し、新たな土台を一から作り直すのは、諸刃の剣でもあった。スタイルを変えてから初の公式戦で惨敗すると、平野は味わったことのない不安と向き合うことになる。

「持ち味だった安定感を捨てて攻めたら、パワーが足りない。このまま、長所を全部なくしてしまえば、誰にも勝てなくなってしまう。そう思うと、胸が苦しくなりました」

 振り返れば、この時点で彼女の心が折れなかったことが、今回の快挙に結びついたと言えるだろう。コーチらスタッフの献身に支えられながら、リザーバーとして参加したリオ五輪で伊藤の活躍を間近で見た憧憬と焦燥、中国超級リーグへの挑戦、史上最年少での全日本女子シングルス制覇......。そういったさまざまな感情と経験を糧に、平野は国際卓球連盟が「マーベラス・ミウ」と讃えるスピードと強打を身につけたのだ。

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る