NBA伝説の名選手:ホーレス・グラント 歴史に残るスーパースターの成長に欠かせなかった最高のロール・プレーヤー (3ページ目)
【マジック、レイカーズでも存在感を発揮】
ゴール下の泥臭いプレーを担うことで、オニール(右)などのスター選手を支えた photo by Getty Images
メジャーリーグに挑戦するためにジョーダンが引退した状況で臨んだ1993−94シーズン、グラントはピッペンとともにブルズを牽引。しかし、プレーオフではカンファレンス準決勝でニューヨーク・ニックスに敗退した。
グラントはその年の夏にフリーエージェントになるとブルズから去ることを決断し、シャキール・オニールとペニー・ハーダウェイという新時代のワンツーパンチを擁するオーランド・マジックと契約し、話題を呼んだ。人生のなかで下した最も困難で難しい決断というグラントだったが、「シャックとペニーというすばらしい才能を持つ若いチームに、私の知識と経験をもたらす絶好の機会だった」という理由で、ブルズを去ったのである。
グラントの心身両面でのタフさと経験値は、マジックがプレーオフを勝ち上がるために欠かせない要素となった。1995年のカンファレンス準決勝では、メジャーリーグ挑戦を断念してNBAに復帰したジョーダンがいるブルズと対戦。フィル・ジャクソンコーチはグラントにショットを多く打たせる戦略を採用したが、グラントはその心理戦に負けず、FG成功率64.7%という高確率で平均18得点、11リバウンドという大活躍でシリーズの勝利に貢献したのである。
カンファレンス決勝でインディアナ・ペイサーズを倒してNBAファイナルに進出したが、マジックはアキーム・オラジュワンを擁するヒューストン・ロケッツにまさかの4連敗。この敗退をきっかけにマジックは、それまでの機運が下がり始める。
次のシーズンもカンファレンス決勝まで勝ち上がったが、グラントは第1戦でひじを痛めた影響でプレーの質が落ちてしまう。そのような状況のなか、前年の雪辱に燃え、このシーズンの公式戦を72勝10敗と史上最高成績(当時)を残していたブルズに太刀打ちでずに4連敗でシーズン終了。1996年夏にオニールがFAでレイカーズに移籍し、新たな転換期を迎えるなか、グラントはマジックの中心選手としてフロントラインを牽引したが、ロックアウトで短縮された1998−99シーズン終了後にシアトル・スーパーソニックスに移籍した。
2000年9月に4チームが絡んだトレードにより、グラントはレイカーズに移籍。ブルズ時代の恩師であるジャクソンHCのもと、再びオニール、そしてコービー・ブライントらを支える役割を担い、35歳ながら77試合に先発して平均8.5点、7.1リバウンドを記録した。フィラデルフィア・76ersとのNBAファイナルでも24.8分間で5.2点、5.6リバウンドと堅実な働きで、自身4度目となるチャンピオンシップリングを獲得。その後はマジックで2年、レイカーズで1年在籍したあと、2004年のNBAファイナル後に38歳で現役を引退した。
決して派手ではなく、主役になる選手ではなかった。だが、キャリアを通して、ジョーダン、オニール、ハーダウェイ、コービーらの歴史に残るスーパースターたちの成功に欠かせないロールプレーヤーとして役割を果たしたことは間違いない。
2001年にはレイカーズで自身4度目の優勝を経験 photo by Getty Images
【Profile】ホーレス・グラント(Horace Grant)/1965年7月4日生まれ、アメリカ・ジョージア州出身。1987年NBAドラフト1巡目10位指名。
●NBA所属歴:シカゴ・ブルズ(1987-88〜1993-94)―オーランド・マジック(1994-95〜1998-99)―シアトル・スーパーソニックス(1999-2000)―ロサンゼルス・レイカーズ(2000-2001)―オーランド・マジック(2001-02〜2002-03)―ロサンゼルス・レイカーズ(2003-2004)
●NBA王座4回(1991〜93、2001)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
著者プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。
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