NBA伝説の名選手:スコッティ・ピッペン ジョーダンとのコンビで歴史に残る「ブルズ王朝」を支えたオールラウンダー
ジョーダンとともにブルズ王朝を築き上げたピッペン photo by Getty Images
NBAレジェンズ連載16:スコッティ・ピッペン
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第16回は、マイケル・ジョーダンとともに1990年代のシカゴ・ブルズ王朝の中心人物だったスコッティ・ピッペンを紹介する。
【無名校で大学1年時は用具係兼任】
6度のNBAチャンピオン、2度のオリンピック金メダルなど、数々の功績を残してきたスコッティ・ピッペンは、12人兄弟の末っ子としてアーカンソー州ハンバーグで生まれた。幼少期からバスケットボールに夢中になり、地元のハンバーグ高に進むとポイントガードとしてプレーしたが、身長185cm、体重68kgと細身だったこともあり、ピッペンに興味を示す強豪大学はなかった。
奨学金をもらえないウォークオンの立場でセントラル・アーカンソー大(当時はNAIA所属で現在はNCAAディビジョン1のアトランティック・サン・カンファレンス所属)に入学したピッペンは、1年生の時に選手と用具係を兼任していたが、この頃から急激に身長が伸び始める。シーズンが終わる頃には現在の203cmとなり、ボールハンドリング力と視野の広さなど多彩なスキルを持つフォワードへと変貌した。
大学4年時には23.6得点、10リバウンドと、シーズン平均でダブルダブルを達成。NCAAに比べて圧倒的に注目度が低いNAIAでも、ピッペンが試合を支配しているという話題は、NBA関係者の耳に入るようになっていく。大学でのキャリアを終えたあとに迎えた1987年のNBAドラフト前に、ピッペンは203cmの身長と運動能力の高さを武器に、オフェンス力だけでなく、ディフェンダーとしての可能性を評価されるようになっていた。
シカゴ・ブルズのジェネラルマネジャー(GM)、ジェリー・クラウスは、「彼のようにコート上できる選手は数少ない」とピッペンを高く評価していたこともあり、ピッペンが1巡目5位でシアトル・スーパーソニックスに指名された後、ブルズは1巡目8位の指名権で指名したオルデン・ポリニスに加え、将来の1巡指名権と交換するトレードを敢行。クラウスの決断は、のちにブルズが1990年代を支配するチームになれた大きな理由のひとつと言っていい。
「すぐにトレードされたことに少しがっかりしたけど、シカゴに行くことは私のキャリアにとってベストなことだった」
こう語ったピッペンは、ルーキーシーズンから1試合平均20.9分と出場機会を得た。マイケル・ジョーダンによる激励とリーダーシップによって、徐々に攻防両面で質の高いオールラウンダーとして成長し、2年目(1988年)のプレーオフから先発スモールフォワードの座を確保する。
ピッペンの飛躍がありながらも、ブルズは1988年のプレーオフからデトロイト・ピストンズの壁を破れずにいた。しかし、フィル・ジャクソンヘッドコーチ(HC)の下、ジョーダンに続く万能型のスコアラーとしてだけでなく、ブルズのディフェンスで最も重要な選手へと成長していく。
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プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。