NBA伝説の名選手:クライド・ドレクスラー ジョーダンと同ポジションでわたり合い、ついにたどり着いた王座への道のり
そのプレースタイルから「クライド・ザ・グライド」の異名をとったドレクスラー photo by Getty Images
NBAレジェンズ連載14:クライド・ドレクスラー
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第14回は、マイケル・ジョーダンと同時代にわたり合い、その存在感を歴史に刻み込んだクライド・ドレクスラーを紹介する。
【ヒューストン大で全米屈指の選手に】
滑らかな動きと高い運動能力を兼ね備え、グライダーが滑空するようなジャンプからダンクを叩き込むことから、クライド・ドレクスラーは『クライド・ザ・グライド』というニックネームで知られていた。
1980年代から1990年代にかけて活躍した201cmのシューティンガードは、同じポジションのマイケル・ジョーダンほどのインパクトや功績を残せなかったかもしれない。しかし、当時のNBAでトップレベルの選手だったのは、1992年のバルセロナ五輪で世界を魅了したドリームチームのメンバーに選ばれたことでも明らかだ。
ルイジアナ州ニューオリンズで生まれ、テキサス州ヒューストンで育ったドレクスラーは幼少時代、バスケットボールよりも野球に熱中していた。しかし、身長が伸びたことでジュニア(日本の高校2年生)のころから本格的にバスケットボールをプレーし始める。最上級生のシニア(高校3年生)になると身長が198cmになり、1979年のクリスマスに行なわれた試合で34得点、27リバウンドを記録するなど、選手として着実にレベルアップしていった。
ただし、NCAA(全米大学体育協会)の強豪大学から注目されていたわけではない。幼馴染で高校の時に対戦したマイケル・ヤングが、ヒューストン大のガイ・ルイスコーチに「彼は僕が対戦したなかでもベストプレーヤーだ」と進言しなければ、ドレクスラーは地元の強豪校に進学することがなかったかもしれない。
ドレクスラーは入学直後からその潜在能力を発揮し1年時からレギュラーとなり、2年時からはのちにNBAの偉大なセンターとなるアキーム・オラジュワン、ヤング、ラリー・ミショーのカルテットを形成。ヒューストン大は全米屈指の強豪となる。高い能力能力を活かして試合中に何度も豪快なダンクを叩き込むことから、『Phi Slama Jama(ファイ・スラマ・ジャマ)*』というニックネームで有名になった。
*次々とダンクを決めるチームスタイルから地元メディアがつけたニックネームと言われている。「High Slam Jam」から変形したというのが定説。
ドレクスラーは2年連続でNCAAファイナルフォーに進出したが、1982年はマイケル・ジョーダンが1年生だったノースカロライナ大に準決勝で敗戦。1983年は優勝候補の筆頭と言われ、準決勝でルイビル大を94対81で撃破する。
しかし、ノースカロライナ・ステイト大との決勝、ドレクスラーは前半で4つというファウルトラブルが災いしてわずか4得点。チームも同点で迎えたラストプレーでブザービーターのダンクを決められ、52対54で全米の頂点に立つことはできなかった。優勝できなかったことに落胆したとはいえ、『Phi Slama Jama』でプレーできたことにドレクスラーは誇りを持っている。
「カレッジバスケットボールをやっていて本当によかった。みんなと一緒にプレーするのは本当に楽しかった。自分たちのプレーが歴史を作っているとわかっていたし、特別なことだった」
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著者プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。