NBA伝説の名選手:クライド・ドレクスラー ジョーダンと同ポジションでわたり合い、ついにたどり着いた王座への道のり (3ページ目)
【縁深い地・ヒューストンで初のNBA王座に】
大学時代の盟友、オラジュワン(左)と再びNBAでチームメイトとなり悲願の王座を手に photo by Getty Images 2度目のNBAファイナル敗戦後も、ドレクスラーはNBA屈指のシューティングガードとして活躍。92年夏はドリームチームのメンバーとして世界を魅了し、1994年NBAジャパンゲームズで来日した際には、ロサンゼルス・クリッパーズとの2戦目で41得点を挙げている。
しかし、1993年から2年連続でプレーオフ1回戦敗退というチームの状況に、32歳とキャリアが終盤に差し掛かっていたドレクスラーは、不満が蓄積してトレードを要求。ブレイザーズは1995年2月14日、大学時代のチームメートであるオラジュワンがエースで、2連覇を目指していたヒューストン・ロケッツへドレクスラーをトレードしたのである。
「ポートランドは私にとって、いつまでも故郷だ。そこにはたくさんのすばらしい思い出と人間関係があるけど、変化の時が来たと感じた。私はチャンピオンシップで戦える立場にいたいと思っていたが、ヒューストンがその機会を与えてくれた」
このトレードは、ドレクスラーにとってもロケッツにとっても、プラスに働いた。移籍直後に5連敗を喫したこともあったが、第6シードながらもプレーオフに進出すると、ドレクスラーはユタ・ジャズを撃破した1回戦の第4戦で41得点。1勝3敗から巻き返したサンズとのカンファレンス準決勝では第7戦で29得点、スパーズとのカンファレンス決勝でも平均19.3点を記録し、ロケッツのNBAファイナル進出に貢献した。
オーランド・マジックとのシリーズでは、オラジュワンとシャキール・オニールのリーグ屈指のセンター同士のマッチアップが注目されたが、ドレクスラーの存在がロケッツにとって大きなプラス材料になった。20点差を逆転した第1戦では23得点、11リバウンド、7アシスト、第2戦でも25得点、8リバウンド、7アシストで勝利に貢献した。敵地で連勝したロケッツは、ホームでの2試合もマジックに競り勝ち、スイープの4連勝で2連覇を達成。自身3度目のNBAファイナルで初めて頂点に立ったことについて、ドレクスラーは次のような言葉を残している。
「タイトル獲得はすべての選手が夢見るものだ。私にとって大切なチームと街でそれを達成できたことは、信じられないほど特別なこと。私はこのリーグに長く在籍し、以前にも優勝に近づいたことがある。ついにすべてを勝ち取ることができたことは本当に信じられない。すべての努力と犠牲がついに報われたんだ」
1996−97から2シーズンは、ドリームチームで一緒にプレーしたチャールズ・バークリーが加わったが、ロケッツはファイナルの舞台に戻ることはできなかった。1998年春、35歳となったドレクスラーは現役引退を表明。背番号22は、ヒューストン大、ブレイザーズ、ロケッツの3チームで永久欠番になっている。
ドレクスラーは引退後、母校のヒューストン大でヘッドコーチを務めたが、19勝39敗という成績に終わり2年で辞任。2000年からロケッツの試合で解説者を務める一方、不動産投資やレストラン経営など、実業家として活動している。
【Profile】クライド・ドレクスラー(Clyde Drexler)/1962年6月22日生まれ、アメリカ・ルイジアナ州出身。1983年NBAドラフト1巡目14位指名。
●NBA所属歴:ポートランド・トレイルブレイザーズ(1983-84〜1994-95途)―ヒューストン・ロケッツ(1994-95途〜1997-98)
●NBA王座1回(1995)/オールNBAファーストチーム1回(1992)
●五輪代表歴:1992年バルセロナ五輪(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
著者プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。
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