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NBA伝説の名選手:ラリー・バード「メンタルとシュート力で上り詰めたスーパースターの栄光とトラッシュトーカーとしての側面」 (2ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【3年連続MVPに3度の王座】

身体能力に頼らないプレースタイルは、日本のバスケファンからも大きな支持を得ていた photo by Getty Images身体能力に頼らないプレースタイルは、日本のバスケファンからも大きな支持を得ていた photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る 1979年に大学卒業後、バードは前年の1978年ドラフト1巡目6位で指名されていたセルティックスに入団。NBAデビューから14戦目となるデトロイト・ピストンズ戦で23得点、19リバウンド、10アシストのトリプルダブルを達成する。スキルの高さと賢さを武器に、チームを29勝から61勝まで上昇させる原動力となったバードは、新人王に輝いた。

 1983−84シーズンは、バードにとって最高のシーズンになった。平均24.2点、10.1リバウンド、6.6アシストを記録してレギュラーシーズンのMVPを受賞。プレーオフで前年に負けていたミルウォーキー・バックスを倒すと、NBAファイナルでレイカーズを4勝2敗で下してチャンピオンシップを獲得した。ライバルであるジョンソンの前で平均27.4点、14リバウンドを記録し、文句なしのファイナルMVPに選出されたバードは、こんなコメントを残している。

「私がこれまでプレーしたなかで最も激しいシリーズで、まさに戦争だった。レイカーズに勝ったことは大きな意味がある。彼らはすばらしいチームであり、このチャンピオンシップはさらに特別なものになる」

 この頃のバードは全盛期で、1983−84から3シーズン連続でレギュラーシーズンMVPに選出されている。史上3人目となる3年連続MVPという快挙を成し遂げると、1986年のファイナルでヒューストン・ロケッツを倒して3度目のNBAタイトルを獲得。ファイナル第6戦で29得点、11リバウンド、12アシストのトリプルダブルを達成し、2度目のファイナルMVPに選ばれた。

 翌シーズンもファイナルまで勝ち上がったが、レイカーズに敗れて2連覇を阻止された。その後、1989年から2連覇を成し遂げたデトロイト・ピストンズの台頭もあり、1987年を最後にバードがファイナルの舞台に戻ることはなかった。1988−89シーズンに両足かかとの手術で6試合の出場に終わり、その後は腰痛に悩まされることになる。1991−92シーズンは37試合、クリーブランド・キャバリアーズに敗れたプレーオフも7試合中4試合で欠場を強いられた。

 1992年夏、バードはジョンソンとともにドリームチームのキャプテンを務め、バルセロナ五輪で金メダルを獲得した後、8月18日に現役引退を発表。クロアチアとの決勝戦が、現役最後の試合になった。

「10年前と同じようなことが身体的にできないのがとても悔しかった。以前できていたことができなくなったんだ」と理由を語ったバードは、セルティックス一筋の13年間で3度のNBA制覇とMVP選出、ファイナルMVP2回という功績を残し、背番号33が永久欠番になった。

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