みんなに愛されたニッキー・ヘイデンが遺したレース愛あふれる言葉 (3ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 彼の素直で真っすぐな性格を評してそんなふうに、うがった見方をする声も当時は少なくなかった。だが、ヘイデンとホンダは真正面から王者ロッシとヤマハに挑み、彼らとの熾烈(しれつ)なチャンピオン争いを堂々と戦い抜いたのだ。

 しかし、その後は苦しいシーズンが続いた。翌07年にチャンピオンナンバーの1をつけて走ったヘイデンだったが、苦戦の連続でランキング8位。08年も好成績を残せずにこの年限りでホンダを離れ、09年からはドゥカティのファクトリーチームへ移籍することになった。

 ドゥカティはいわずと知れた、ボローニャのボルゴ・パニガーレに本拠を構えるイタリア企業だ。技術者たちの気風も、ホンダとは異なる。母語はイタリア語だが、欧州企業だけあって全員が英語をよく解する。それでも日々の生活やメディア対応などではイタリア語のコミュニケーションに不自由する場合もあるため、ヘイデンを若い頃から知り、イタリア語も堪能なアメリカ人ジャーナリストが専属広報担当に雇われた。我々の取材仲間でもあるこの人物は、06年のチャンピオン獲得後にヘイデン三兄弟の評伝を著した優秀な書き手だが、ヘイデン担当としてチーム入りすることになったのだ。

 09年のドゥカティは、07年に王座を獲得したマシンのさらなる戦闘力向上を目指し、さまざまなトライをしていた時期だ。07年のチャンピオンライダーであるケーシー・ストーナーですら、調子に波があった。新たに加入したヘイデンについてはいうまでもないだろう。この年のヘイデンの年間ランキングは13位だった。

 11年は、ストーナーがホンダへ去って、新たにロッシがドゥカティ陣営に加入した。マシン設計の指揮を執るフィリポ・プレツィオージは、ロッシの要求に応じて徹底的な改良を進めていった。台風のような2年間が過ぎ、ロッシはヤマハへ戻っていった。そしてプレツィオージも引責辞任のような格好でしばらくして現場を去った。

 いくつもの波に揉まれながら、ヘイデンは決して腐ることなく、その時々の条件下でいつも全力を尽くした。10年は年間7位、11年は8位、12年と13年はともに9位。

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