父を乗せてウイニングラン。笑顔が忘れられないMotoGPチャンピオン (2ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

「彼は決して言い訳をしないし、人のせいにしない。でも例えばタイムが出ない時に原因がハードウェアだったということもあるじゃないですか。そんな時も、ニッキーは『責任は自分にある』と言ってしまうんですね」

 06年に世界チャンピオンを獲得した後も、ひたむきな姿勢は一貫して変わることがなかった。開幕前のプレシーズンテストなどで、ヘイデンはコースがオープンしてから日没前の終了時刻まで、終日走り続けた。周回数は誰よりも多かったのではないだろうか。当時のレプソル・ホンダ・チーム監督だった田中誠は「ニッキーの場合、とにかく〈走らないと死んじゃう病〉だからさ」と、半ば呆れ、半ば感心しつつといった口調で笑いながら話した。その様子は、まるで自慢の弟を語るかのようだった。

ヘイデンは、2006年にMotoGPチャンピオンに輝いたヘイデンは、2006年にMotoGPチャンピオンに輝いた 話を少し戻すと、ヘイデンの初年度ランキングは5位。ルーキーとしてはまずまずといったところだろうか。記録上の初表彰台は、ツインリンクもてぎで開催された第13戦パシフィックGPとなっているが、実は玉田誠の3位の記録がレース後に取り消されたため、決勝の数時間後にヘイデンの繰り上げ3位が決定したという背景事情がある。彼が実際に観客の前で表彰台に登壇した最初のレースは、その2週間後、第15戦オーストラリアGPでの3位獲得だった。

 2年目の04年は年間ランキング8位。翌05年に、ヘイデンにとって母国開催となるU.S.GPが復活した。舞台は、カリフォルニア州のラグナセカ・サーキット。コース最高地点で左へ小さく旋回した直後に、右へ切り返しながら急坂を一気に下る難コーナー「コークスクリュー」が特徴だ。1994年以降、このサーキットではしばらくグランプリが開催されていなかったため、ヘイデンら数人のアメリカンライダーを除き、ほとんど全員がラグナセカ・サーキット初体験だった。

 この地元コースで、ヘイデンは圧倒的な速さを披露した。

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