ラリードライバー篠塚建次郎は70歳。パジェロが年8万台売れた頃を語る (4ページ目)

  • 川原田剛●取材・構成 text by Kawarada Tsuyoshi
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

――WRCとパリダカで日本人初の優勝という偉業を達成し、かなりのボーナスをもらったんじゃないですか?

今年行なわれた「アフリカ・エコレース」に70歳で挑戦し、完走した篠塚(写真は篠塚氏提供)今年行なわれた「アフリカ・エコレース」に70歳で挑戦し、完走した篠塚(写真は篠塚氏提供) いまだに後悔しているのは、もっとお金をもらっておけばよかったなあということですね(笑)。もちろん社長から表彰され、金一封はいただきましたが、豪華な夕食を一回したらなくなってしまうようなものでした(笑)。

 でも社員ドライバーにはいい面もたくさんありました。たとえば、アジア・パシフィックラリー選手権に出場したいとなれば、「これから市場として有望なアジアで宣伝効果があるので、とてもいい販促になる。ついては、ドライバーは篠塚建次郎で、予算は何億で......」と企画書をつくって、上にあげるんです。そういうことを社員はできるんですけど、契約ドライバーはできないんですよね。

 自分でプランを組んで、予算を決めることができたので、会社のお金はずいぶん使いました(笑)。でもパジェロやランエボのブランドを確立することができましたので、その何百倍も返したという自負はありますね。

――社員ドライバーとして順調にキャリアを積み重ねてきたわけですが、どうして三菱を退社することになったのですか?

 2000年のパリダカで大きな事故を起こしてリタイアしたのですが、その前後に、私と一緒にパリダカをやっていた先輩が亡くなったりして、なんとなくさみしくなってしまったんです。

 それでラリーに専念するためにフランスに駐在員として出してくれと頼んだんです。それが社内で通って、01年と02年はパリに住みながらパリダカに参戦しました。

 02年が終わったあと、三菱の方から「そろそろ引退したほうがいいんじゃないか」と言われましたが、「自分としてはまだまだ現役で走りたい。引退するかしないかは自分で決めたい」と伝えたのですが、話し合いは平行線のままでした。このままではラリーを続けることができなくなると考え、02年の夏に三菱に辞表を提出することを決断しました。

(後編につづく)

篠塚建次郎
しのづか・けんじろう/1948年11月20日生まれ。東京都出身。大学卒業後、三菱自動車の社員ドライバーとして、世界ラリー選手権 (WRC) とパリ・ダカールラリーで日本人初の優勝者となった。2002年に三菱を退社後も07年までパリダカに出場する。08年には南アフリカで開催された国際的なソーラーカーラリー『サウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジ2008』で優勝。翌年にはオーストラリア大陸で開催された世界最高峰のソーラーカーレース『ワールド・ソーラー・チャレンジ』でも優勝している。2018年、アフリカ・エコレースに参戦し、12年振りにサハラ砂漠での挑戦を開始した。70歳になった現在は山梨県の清里で夫人とともにペンションを経営しつつ、日々トレーニングを重ね、現役ドライバーとして活動している。

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る