F1全盛期。『週プレ』が見つめた「セナ狂騒曲」
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5月特集 F1 セナから20年後の世界
1987年からフジテレビで中継が始まり、瞬く間にブームとなったF1。その熱狂の中心にいたアイルトン・セナの日本での人気を、当時『週刊プレイボーイ』のモータースポーツ担当だったジャーナリストの清水草一氏が振り返る――。
日本でアイルトン・セナの人気が急激に高まったのは、88年のマクラーレン・ホンダ移籍からだろう。日本の誇り・ホンダエンジンにまたがる、ガラス細工のように繊細な音速の貴公子は、日本人の心情にダイレクトにヒットした。考えてみれば、外国人でありながら、これほどまでに日本人に愛されたスポーツ選手はいないかもしれない。
マクラーレン・ホンダで数々の勝利を飾ったアイルトン・セナ photo by AFLO 私が『週刊プレイボーイ』のF1担当者になったのが、ちょうどその88年だ。当時週プレでは、定期的にF1のレポート記事を掲載していたが、雑誌の発売はレースの約10日後で、速報性は低い。87年にフジテレビがF1中継を始めるまでは、日本を代表する男性誌としてF1を取り上げる意義は大きかったが、88年当時ともなると、F1ブームによってF1速報誌も乱立し始めており、週プレ掲載のレース後の記事では、冷めたスープを提供するような面があった。
当時の週プレを読み返すと、F1の記事がそれほど多いとは言えないことに、むしろ驚く。担当者としては、当時のF1ブーム、セナブームに乗り切れず、引きずられて付いていっているようなかっこうだった。
89年、90年と、セナ対プロストの骨肉の対決の中、F1ブームはますます燃え盛ったが、週プレF1担当の私は、徐々に「反セナ」的心情になっていた。日本でのセナのイメージは、あまりにも正義の存在であり、美しいヒーローでありすぎた。
私が新入社員当時、週プレの編集長だった島地勝彦氏は、なにかにつけ「週刊プレイボーイはアナーキーでなければいけない」と語った。その言葉がいつのまにか血肉となったのか、永遠の不良であるべき週プレとしては、セナはむしろ叩くべき存在に思えた。
91年からの週プレのF1記事は、ナイジェル・マンセルの応援一色になっている。私がマンセルファンだったからだ。粗野で田舎くさくてやみくもに突撃するのみのマンセルは、セナに対するカウンターカルチャーでもあった。私は、マンセルファンの自動車評論家・舘内端氏に原稿を依頼し、マンセル応援の視点からのF1記事(セナに関するものも含む)を入稿し続けた。速報ではなく論評である。
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