ウイニングチケットは「7%の余力」を埋めて悲願達成。日本ダービーというレースの価値を改めて教えてくれた名馬だった (2ページ目)
1993年の日本ダービーを制したウイニングチケットこの記事に関連する写真を見る あとで知ったのは、そこに「ダービーを勝つために」という、さまざまな思いが込められていたことだ。
ウイニングチケットの鞍上は、柴田政人騎手。この時、44歳。
数多くの重賞を制し、全国リーディングジョッキーにも輝いている。好敵手・岡部幸雄騎手とともに関東を代表するトップジョッキーだった。
ただ、柴田騎手はダービーには縁がなかった。それまでに18回挑戦して、3着が2度あるだけ。「何としてもダービーを勝ちたい」――それは、柴田騎手の悲願だった。
そんな柴田騎手に救いの手を差し伸べたのが、名伯楽として知られていた伊藤雄二調教師だった。
「おまえにダービーを獲らせる」
ウイニングチケットの主戦を任せるに際して、伊藤師は柴田騎手にそう言った。
そうして、伊藤師が描いた青写真は、ウイニングチケットの体調をダービーでピークに持ってくること。したがって、そこまでの過程では、ある程度の敗戦も覚悟していた。
一方、柴田騎手もダービーを勝つための最適な騎乗、ウイニングチケットのよさを存分に発揮できる競馬を探っていた。
実は、それが皐月賞だった。敗れはしたが、皐月賞のような形こそ、ウイニングチケットにとって理想の競馬だという確信が、柴田騎手にはあった。
早めに抜けだして、ゴールまでしのぎきる。ゴール前のキレ味ではなく、むしろゴールまでの粘り強さを生かす。それが、ウイニングチケットをダービーで勝たせる最良の選択であると信じていた。
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